三鷹市牟礼と世田谷区北烏山の入り組んだ境界を探る

世の中には「県境マニア」と呼ばれるジャンルの人がいるらしく・・・確かに県境などの境界線に立つと、言葉では表しがたい優越感に浸れるものです。

最近では、「歩いて行ける三県境」という、3つの県が隣り合う境界が注目を集め、小さな観光地になっているほどです。

一部カーナビの「東京都に入りました」「神奈川県に入りました」というアナウンスを市区町村まで喋ったらいいのに・・・などと時々思うのですが、カー用品メーカーあるいは電機メーカーさん考えてくれませんかね?

三鷹市と世田谷区の境界

それはさておき、今回取り上げるのは三鷹市世田谷区境界について。

街路に設置された住居表示案内板より。南が上になっています。

この写真は町中に設置されている住居表示の案内板です。

見ての通り、濃いグレーで示された三鷹市世田谷区に大きく食い込んでいます。いや、世田谷区が食い込んでるのか・・・?どっちでもいいですけど、とにかく複雑な境界になっています。

見やすいように書き起こすとこのような感じ。飛び地のように見えて実はちょっと繋がっています。

住所ではこのようになり、突き出た三鷹市の部分は牟礼(2丁目)となっています。

この境界を不思議に思う人も多いようで、ネット上にはこのことを取り上げたサイトがありました。

デイリーポータルZの記事では、市の担当者もわからない・・・とのことで、ネット上で調べた限り、この答えを導いているサイトはありませんでした。

どうしてなのか気になるじゃない。

現地調査

右の道路は東八道路で、道路のどこかに境界があります。

この辺りは「武蔵野」の平地で、地形的な特徴はこれといってありません。ただただ平らです。

三鷹市牟礼が引き千切れそうな部分はこのような境界線だと推測されます。地面に標が刺さっているかなと気にしたのですが、わかりませんでした。

ちなみに写真右の部分で用地買収されていますが、これは外環道建設によるものです。今後このような境界がわかりにくくなる可能性がありますね。

これは三鷹市牟礼の細長い部分。牟礼の幅は、場所によって異なりますが40mくらいです。

周辺の状況としては、三鷹市世田谷区どちらも畑と住宅地が混在した状況です。生産緑地になっている箇所もありました。

さらに東へ進むと、朝日生命体育館を突っ切り、ガーデンヒルズというマンション群の東側で三鷹市牟礼の終端となります。

境界線が突っ切るガーデンヒルズの公開空地案内板には、確かに三鷹市世田谷区どちらの名前もあり、このマンションは境界線上に立っていることがわかります。

[補足] 牟礼のこと
三鷹市牟礼地区は三鷹市域でも初期の村で、1590年頃に牟礼村として成立したとされています。現在の「井の頭」も含む範囲でした。
当時は「牟礼」や「無礼」(あるいは礼の旧字「禮」)のどちらも使われていたようですが、『三鷹市史補・資料編』によれば、1816年に無礼村を牟礼村に統一して使用するよう許可された以降、「牟礼(禮)村」に統一されています。
その後合併し、三鷹村となり、三鷹町を経て、三鷹市になっています。

推測① 用水説 しかし可能性は低い?

昔の争い・・・といえば、何といっても「水」問題。
何かないか探してみると、この地に「品川用水」という用水路が流れていたことがわかりました。

地図に起こすとこのようなルートで、玉川上水から分水した品川用水は、西から流れてきて、牟礼の細長い地を少しだけ通り、現在の烏山通りに沿って南下して行っていたそうです。

品川用水が辿りつく先は現在の品川区でした。『品川用水沿革史』(品川用水普通水利組合,1943年)を読むと、当時は争いもあったそうで、水の争いは現在の都市部では想像しにくいものです。

この『品川用水沿革史』には、巻末に刊行時の用水の様子が書いてあります。

天神前の神社を過ぎると牟禮の耕地が眼前に展開する。此處らあたりはまだまだ武蔵野の農村らしい姿を殘してゐる。用水路は空濠のやうになつて里道の右に左に屈折して進む。兩側の土揚敷には灌木が叢生し、處々崩れてゐるところがある。久しく手入れも何もしないからであらう。

牟禮の耕地を見下ろすところ、水路は一段高く築造され、下仙川の惡水吐伏樋が下を横断してゐる。

これより進めば少許にして水路も道路も右折し、南下して千歳村に入る。

品川用水沿革史

このように、このころには水路としての役目は終えていたようですが、水路敷は確認できたようです。なお、品川用水は1932年に品川用水普通水利組合が解散し三鷹町に移管され、三鷹用水と名乗る時期があったようですが、それは浸透せず品川用水と呼ばれていたようです。その後用水は使われなくなり、埋め立てられた箇所も多いそうです。

1965年の都市計画図では、水路敷が書かれており、確かにこのようなルートを通っていたようです。

また、この地図では今は無き小字を確認できます。この中に「烏山飛地」があります。

[補足] 烏山飛地のこと
『三鷹市史補・資料編』によれば、
小字名にある場合とそうでない場合とがある。世田谷区の旧烏山村の飛地として開墾された地域で昭和30年代後半にも”烏山飛地”の表示看板が建てられ、北野とは区別した存在を示していた。
とのこと。
今回のことと関係あるか調べたが、文献が見つからないので省略。

ただ、品川用水が複雑な境界線に関係している資料は見つからず、また、用水より長く境界線が出っ張っていること、さらに用水を途中で使われることを警戒していたようですから、境界と用水の関係性は低いのかなぁ・・・と推測します。

推測② 玉川上水の代地説

これは牟礼地区を歩いていて見つけたもので、三鷹市教育委員会が庚申供養塔の横に設置した案内板の一部です。本来は庚申供養塔の説明のものですが、ここに書かれていた『牟礼村古絵図』が参考になりました。

原本を探して案内板を管理する教育委員会に問い合わせたのですが、一般公開はしていないといことなので、少々画質の悪い案内板の絵図を引き延ばしてみます。

※北が上になるように回転し、文字を追加した。間違っていた場合はご指摘ください。

そこには烏山村に挟まれて、おそらく玉川上水代地と書かれた文字が見えます。

とあるように、この牟礼の出っ張った部分は、玉川上水開削にともない失った土地の代替地の可能性があるのではないかと推測します。

ただ、字がよく読み取れないこと、玉川上水開削の記録をあたったものの代地に関する文献は見つけられなかったことから、「可能性がある」だけにとどめておきます。

ちなみにここから一番近い玉川上水は500mほど北側にあり、当時の牟礼村の中央付近を突き抜けていました。

疑問に残るのが、なぜここなのか。なぜ間に烏山村を挟むのか。なぜこの形なのかという点。
そのことははっきりわかりません。

[補足] 北野村のこと
『三鷹市史補・資料編』によれば、
寛文年間(1661~72)に下仙川村の村民が開発した地域で、その頃は”原仙川村”と称していたといわれ、文禄8年(1695)の文禄検地を行った頃、”北野村”として一村をなしたと「稿」には記されている。
とされています。

そのほかの説

そのほか、たまたまそういう風に土地を持っていた説や、地下水が関係する説も聞かれました。

昔の東八道路の延伸予定地だったのでは・・・という説については、都市計画道路が決定するずっと前の江戸時代の地図にもその境界があることと、これまでに東八道路がそのようなルートで計画されたことは一度もないので否定しておきます。

結論

結論は、はっきりと複雑な境界の理由はわからない。ということにしておきます。

個人的には玉川上水の代地説が有力だと思いますが、私程度の調べでは断定できません。今後の研究を頼みます・・・m(__)m

撮影日:2018年12月26日、2019年2月15日ほか 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。

コメント

  1. にゃー より:

    ここほんと不思議ですよね
    ギリギリの家は、小学校なんか近くの学校に通えなさそうですしね。
    等価交換して整理出来たらいいのに・・

    ところで終端の画像内の説明は、赤くせり出しているところが三鷹市だと思います

    • yunomi-chawanyunomi-chawan より:

      地権者すべての同意があれば境界の変更もできると聞いたことがありますが、世田谷区の人が三鷹市にはなりたくないでしょうね。

      画像訂正しました。
      以前のブログでも同様の指摘があって訂正していたのを、このブログに移転する際に誤って前の画像を掲載してしまっていました。

  2. sho より:

    だいぶ前の記事ですが,初めて読みました.
    面白い場所ですね.
    よく調査されました.
    骨がおれた事でしょう.
    お疲れさまです.

    • yunomi-chawanyunomi-chawan より:

      ありがとうございます。
      世田谷区や杉並区、三鷹市の図書館に行ったり、三鷹市教育委員会に問い合わせたりと色々調べた記憶があります。

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