「東八道路が下本宿通りを通る計画だった」という話は本当か

はじめに

三鷹市杉並区では、図の場所では2018年12月現在、東八道路放射第5号線の新設工事が行われています。また高井戸インター(出入口)方面にかけて改修工事も行われています。

このブログでは何度か工事の様子を記事にしてきました。

都市計画上は、三鷹市内(≒三鷹都市計画区域内)は三鷹3・2・2号東京八王子線23区内(≒東京都市計画区域内)は放射第5号線として都市計画決定しています。
このほか、八王子方面にかけて連続的に都市計画決定していて、将来的には高尾山付近まで1本の道路で繋がれることになります。

なお、「東八道路」というのは東京都が1984年(昭和59年)に設定した通称道路名であり、牟礼橋付近~国立インター入口交差点までが設定されています。都市計画道路の名前とは別のものです。「東八」というのは京都心と王子を結ぶことから付いた名前です。

東八道路は下本宿通りを通る計画だったのか

さて、現在の都市計画道路は牟礼橋のところで大きく北へ迂回し、玉川上水沿いに計画決定されています。

一方、ネット上の掲示板やサイトなどでは、

もともと下本宿通りの方を通る計画だったが、住民の反対運動によって玉川上水沿いに変更された。

などと書かれたりしています。果たして本当か。そんな資料は見たことがありませんでしたので調べてみました。

結論を言うと うそ でした。

東八道路放射第5号の歴史を探ってみましょう。

現在の下本宿通り

都市計画の誕生と原型

戦前の計画

東京区部では関東大震災以降、震災復興計画で1927年(昭和2年)に街路網が決定されます。

放射第5号線は現在の甲州街道旧甲州街道に沿って幅25mの道路が計画されているのがわかりますが、まだ甲州街道の途中から分岐した計画にはなっていません。

また、このほか1930年~1943年にかけて決定された、碁盤の目状の細道路が図に書かれているのがわかります。

この当時は三鷹方面はまだ都市計画そのものが存在していません。

現三鷹市内の計画決定

三鷹方面では、1938年(昭和13年)に都市計画法の適用を受け、1941年(昭和16年)1月11日に都市計画街路が決定します(内務省告示第6号)。

なお、当時は武蔵野、三鷹、小金井、保谷、田無で武蔵野都市計画区域を形成していました。その後それぞれで分離し都市計画区域となっています。三鷹は1950年(昭和25年)に市制施行により分離。※保谷と田無は合併に伴い統一。

決定時の理由書には、

理由書

武蔵野都市計画区域ニ包含セラルル武蔵野町、三鷹町、小金井町、田無町及保谷町ノ五箇町ハ帝都ノ西方ニ隣接シ共ニ好適ナル住宅地ニシテ帝都ノ発展ト密接ナル関係ヲ有シ近年此ノ地ニ移住スル者激増シ且随所ニ工場ノ蝟集ヲ見、発展ノ趨勢頗ル顕著ナルモノアリ

然ルニ道路ハ幅員狭小ニシテ連絡系統ヲ欠キ交通上ノ不利、不便尠カラザルヲ以テ茲ニ都市計画区域内全般ニ互ル街路網及広場ノ計画ヲ樹立シ以テ都市構築ノ根幹タラシムルト共ニ防空、防災乃保健増進ニ備ヘントスルモノナリ

(後略)

※一部文字を現代のものに置き換えた

と、されています。

このときに66路線が決定しています。この中には東八道路の原型となる計画が含まれています。

図の下側に東西に横切るのがそれで、1等大路第2類第1号線(1・2・1号線)として、三鷹町大字仙川を起点として小金井町大字貫井を終点とする幅員30mの計画です。

ただし、現在の東八道路(赤破線加筆)と比べてみると、やや北側を通っていることがわかります。これは一部を人見街道に沿ったルートです。
また、東側区間は途中で南下したルートとなっています。

また、このときの計画決定では、玉川上水に沿って広路1号広路2号が決定しています。これは幅員50m(ただし水路敷を除く)でした。

現23区内の玉川上水沿いの道路計画

1942年(昭和17年)4月22日には、現23区内の玉川上水に沿って保健防火道路第2号玉川上水線が決定されます(内務省告示第220号)。

決定時の理由書には、

理由書

帝都ニ於ケル人口ノ集中ハ随所ニ密住地ノ簇出ヲ見、爲ニ市民体位ノ低下ヲ來スノミナラズ火災ニ対スル危険ハ益々増大シ洵に憂慮ニ堪ヘザルモノアリ

仍テ市内河岸景観地ノ内先ズ呑川、玉川上水、千川上水、石神井川ヲ選ビテ沿岸道路ヲ新設又は拡幅シ、之ニ植樹ヲ施シ市民ノ体位向上ノ一助タラシムルト共ニ都市ノ防火ニ備ヘントスルモノナリ

※一部文字を現代のものに置き換えた

と、あるほか、計画方針には、

計画方針

一 河川沿岸値旧街道等ノ並木街ヲ選定セリ
二 十五路線程ヲ選ヒ今回ハ其ノ内四路線ヲ選定議題ニ供セリ
三 幅員ハ河川敷等ハ之ヲ包含シテ全幅五十米ヲ原則トセリ
四 保健道路ハ歩行者専用ヲ旨トスルモ自転車道・乗馬道ヲ適宜考慮セリ一般ノ高速車ハ全々許容セズ即チ一般街路系統ト分離考慮セリ
五 市内中央近カクヲ郊外ニ向ヒ放射的ニ選定セリ
六 沿線ニハ風致景観ノ地ヲ多ク求メタリ
七 本計画幅員ニハ現在国有地タル河川敷乃水路敷ノ幅員不規則ナルヲ以テ計画道路ノ外側間ノ距離ヲ道路幅員トシテ表示セリ
八 計画ヨリ除外セル国有地(河川敷乃水路敷)ト雖モ必要ニ應ジ適宜架橋ヲナシ両岸道路ノ連絡ヲ図ルモノトスル

※一部文字を現代のものに置き換えた

とあります。書いてある通り、この計画は幅員50mの歩行者道路で、市民の健康向上と都市防火を目的としていることがわかります。ただ、戦時中なので防火目的が大きかったのかなぁとも思います。このとき同時に、千川上水、石神井川、呑川も同様の計画が決定しています。

保健防火道路第2号玉川上水線は約5,790mで決定し、武蔵野都市計画の広路1号と接続しています。

この時点での付近の計画(関係するもののみ)

戦後の計画

戦後復興計画

戦後、1946年(昭和21年)3月26日には、戦災復興都市計画として東京に放射線街路・環状線街路が決定します(戦災復興院告示第3号)。この中には放射第5号線も含まれています。

当時の放射第5号線麹町区麹町2丁目を起点とし、世田谷区烏山町・北多摩郡三鷹町界までで、起点~四谷区四谷2丁目までは幅員100m、四谷2丁目~終点までは幅員50mでした。

ルートは起点から概ね、甲州街道に沿って計画されていますが、途中芦花公園駅付近のカーブで直進し甲州街道から分岐しています。またその先で三鷹の1・2・1号と接続しています。

放射第5号線が決定した1年後の1947年(昭和22年)11月26日には、補助第129号線補助第130号線が決定しています(戦災復興院告示第128号)。

このとき戦前の計画は引き継がずすべてリセットされているようで、現在の計画図書を見ても当初決定はこのころとなっています。

1960年代の全面的な計画変更

1960年代になると、東京都内全域の都市計画道路の改定が行われます。

三鷹の全面改訂

三鷹市では1962年(昭和37年)7月26日に全面的な改定が行われます。

1941年(昭和16年)に決定していた都市計画道路をすべて廃止し、都市計画道路が新しく決定しています。※変更という扱いではない

東八道路にあたる道路計画は三鷹1・2・1号として決定します。ルートは現在の東八道路とほとんど同じものの、起点が現在の杏林大学病院北交差点となり、区部には接続していません。

また、広路第1号線、第2号線についても廃止されています。

区部の改訂

区部では1961年(昭和41年)7月30日に都市計画道路の全面改定が行われます。

放射第5号線は現在の計画のように上北沢駅付近で甲州街道から分岐するようになり、玉川上水に沿って牟礼橋まで計画されます。このとき、保健防火道路第2号玉川上水線は廃止され、これを踏襲したルートになりますが、保健防火道路で除外されていた水路敷も含む計画となります。

また、この他の補助線街路が決定・変更・廃止され、細道路も廃止または補助線街路に格上げ。現在とほぼ同じ計画となります。

さらに都市高速道路第4号線外郭環状線外環ノ2も決定します。

区部の改訂に伴う東八道路の延伸

区部の変更に伴って、1962年に起点が短縮されていた東八道路(三鷹1・2・1号線)は、区部変更同日(1966年7月30日)に牟礼橋まで延伸されました。これにより、1962年以来4年ぶりに区部と接続となりました。

1960年代の変更以降、幅員や名称を除いて現在までほとんど変更されていません。(※外環の地下化・外環の付属街路・放5の幅員(後述)などの変更有)

※三鷹市内の都市計画道路名称番号変更は1991年(平成元年)に実施。三鷹1・2・1号→三鷹3・2・2号

2018年の都市計画図(1966年以降外環が地下化されたり、付属街路が廃止されたり、幅員が変更されたりしているがルートに大きな変更はない)

すなわち、下本宿通りを通る計画などこれまで存在していません。

中央自動車道の反対運動の話

中央自動車道のこの区間が建設される際、沿道のJKK烏山北住宅の住民らによって反対運動が展開されたのは有名な話です。

このため、高井戸IC付近に烏山シェルター(高井戸トンネル)とも言われる囲いができていたり、高井戸ICの下り入口がいまも開設されていません。

烏山北住宅(左)と中央自動車道(右)、高架下に補助219号線ができる計画

中央自動車道は1962年(昭和37年)に建設大臣の施行命令を受けた当時の公団が建設を進めていました。

調布~河口湖間は1969年(昭和44年)に完成。残る高井戸~調布間についても、1966年(昭和41年)7月に都市計画決定し(前述)、用地取得などを進めていました。

烏山北住宅周辺は中央自動車道の両側に補助第219号線を配置する構造で、団地内の用地は団地建設当初から確保されていました。

なお、団地の計画決定は1964年(昭和39年)で、入居開始は1966年(昭和41年)2月のこと。このときはまだ中央自動車道の計画決定がなされていなかったため、住民は計画を十分に説明されていませんでした。団地横断区間は1970年(昭和45年)3月に工事着手され、団地住民に対する工事概要説明会を行ったのは同年7月1日のことでした。

この説明会で計画を知った住民らは7月12日の住民大会で烏山北住宅道路対策協議会を設置。反対運動を行っていくこととなります。

補助216号線予定地と烏山シェルター(高井戸トンネル)

その後いろいろあって今のようになっているわけですが、資料を見る限りは協議会が反対していたのは中央自動車道補助219号線、(補助216号)であり、この時点では放射第5号線の牟礼方面については特に触れられていません。

また、反対運動が発生したのは計画決定後であるということです。

当時の新聞記事(1970年7月13日読売新聞朝刊P13)

放射第5号線に反対運動は無かったのか

それでは放射第5号線に反対運動がなかったのかというと、そうでもないようです。

富士見丘小学校関係

当時の新聞記事(1978年5月16日読売新聞朝刊P20)

中央自動車道は反対運動の末、開通することとなり、その一般道路部になる放射第5号線(中の橋~富士見ヶ丘間)も工事に着手し完成します(側道暫定片側1車線の状態)。

しかし、新聞記事によると、その後交通開放されることなく、閉鎖された状態が続いていたそうです。

沿線の区立富士見丘小学校関係者が「高速道の開通による車公害で教育環境が悪化した。放射五号線を供用させると車はまた増える」と開通に反対しているため。

とあり、反対運動が存在したことがわかります。

当時の新聞記事(1984年5月31日読売新聞夕刊P15)

結局、1984年5月31日に交通開放。一方「抜き打き開通」だとし、座り込みや富士見丘小学校児童の登校拒否も含めて反対運動が展開されました。

玉川上水区間着手前の反対運動

このブログでも記事にしているように、玉川上水区間は2005年(平成17年)12月20日に事業認可を受けて東京都が現在も事業を進めています。

この区間では事業に先立ち、総合環境アセスメント制度を試行して進めてきました。これは計画策定の段階から情報を公開し、多くの意見を聴きながら、計画をより環境に配慮したものに調整していくための制度です。この中で東京都は[A案]規定幅員50mで玉川上水を開渠にしたまま整備する案、[B案]幅員を60mに拡幅し玉川上水を開渠にしたまま整備する案、[C案]規定幅員50mで玉川上水を暗渠にする案がだされ、結局B案となり都市計画変更を経て事業化されました。

ただしこの段階で、住民らは道路の地下化を訴えていました。しかしもともと案に含まれていないこと、一般道であるため沿道アクセスが必要であること、換気施設が必要となる事、事業費が約2倍になる事、用地買収が増えることなどから採用されていません。

まとめ

結論として、東八道路や放射第5号線が下本宿通りを通る計画は存在せず、また反対運動が玉川上水沿いにルートにさせた要因であるとは考えにくいです。

他に何かご存知の方がいらっしゃれば教えてください。

参考

・三鷹市, 『三鷹都市計画図  昭和33年3月30日発行』, 1958年
・三鷹市, 『三鷹都市計画図 昭和56年発行』, 1981年
・三鷹市都市整備部都市計画課編, 『三鷹の都市計画』, 1993年
・財団法人東京市町村自治調査会, 『多摩都市計画史』, 1999年
・人分社, 『東京都特別都市計画図集 1 用途地域篇 新旧計画街路対照』, 1964年
・東京都, 『東京都市計画用途地域図』,2013年
・東京都建設局, 『東京都都市計画道路地図 復刻集』, 1993年
・東京都都民生活局参加推進部, 『「烏山北住宅住民運動」関連資料集』, 1979年
・東京都都民生活局参加推進部, 『別冊「烏山北住宅住民運動」の経緯 昭和37年~53年-展開過程図-』, 1979年
・読売新聞,『団地ぶちぬく高速道路』, 1970年7月13日朝刊, P13
・読売新聞,『放射五号線 閉鎖いつまで』,1978年5月16日朝刊, P20
・読売新聞,『開通後9年間放置の放射5号線 ”抜き打ち開通”で騒然』,1978年5月30日夕刊, P20
・読売新聞,『児童427人が登校拒否』,1978年5月31日夕刊, P20
・読売新聞,『”騒動の道”今は・・・』,1978年6月13日朝刊, P19
東京都通称道路名 ~道路のわかりやすく親しみやすい名称~
東京都都市計画情報等インターネット提供サービス
・国立公文書館蔵, 請求番号『纂02590100』、『昭53建設88100010』、『昭53建設56000020』、『昭53建設07500020』、『昭53建設86100040』、『昭53建設86100040』

調べにご協力いただいた皆様ありがとうございました。

コメント

  1. kn より:

     中央高速は環八付近の反対運動で暫定的に東京の入口になった調布市でも混雑状況に怒った市の関係者が調布インターで座り込み事件が起きたり。
     夢の島のゴミトラにピケを張る運動が起きたりして。自分だけ良ければ他はどうでもいいのかと杉並区の開発反対運動に批判が集まっていろいろあった記憶がありますね。
     子供だったので新聞記事を断片的に読んだ記憶ですけれど。中央線の杉並区内の停車駅問題とかも批判の対象だった気がします。

    • yunomi-chawanyunomi-chawan より:

      そのような事実があったとしても、それが語り継がれるにつれて、尾鰭が付いたり、曲解されたりすることがあるので、よく調べて判断したいところですね。

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