「野猿峠」と聞いて何を思い浮かべますか?
おそらく、「八王子市街地と多摩ニュータウンを結ぶ野猿街道がある小さな峠」というイメージの人が多いのではないでしょうか。峠といいつつ、大してグネグネもしていない丘ですが、かつては行楽地であったようです。
戦前から、戦争を挟み、戦後まで、ハイキングが流行し京王帝都電鉄は野猿峠や七生村(現:日野市の一部)を気軽に行けるハイキングコースとして大々的に広告していたようです。一時はハイキング特急という電車まで運行させていたらしい。
その後周辺の宅地化や、多摩動物公園の開園、流行の終息などで当時のハイキングコースはとぎれとぎれになっています。
ということで、当時のハイキングコースとほぼ同じルートを歩いてみました。
当時コースはいくつかあったようですが、高幡不動駅から尾根筋を西へ向かうコースを歩きました。野猿峠まで行く予定でしたが、暑すぎてくらくらしたので途中で諦めました。機会があれば続きを歩く予定です。
今回の記事は歩いた記録なので、ハイキングが流行した当時の様子については割愛します。なお、歩くにあたって以下の書籍を参考にしました。
・多摩のあゆみ第166号 特集 郊外行楽地と多摩
公益財団法人たましん地域文化財団 平成29年5月15日発行
・京王風土記
京王帝都電鉄株式会社 1954年(昭和29年)4月1日 発行
・郊外行楽地の誕生
多摩市文化振興財団パルテノン多摩 2002年8月 発行
高幡不動駅を出て南西へ尾根筋をひたすら歩きます。その1では都道155号線付近まで書きます。
高幡不動駅を13:40スタート。駅周辺で飲み物の調達をしておきます。忠告ですが、長沼駅まで自販機はありませんでした。
500mLのペットボトルでは足りず、最後の方くらくらして「やばいかも」と思ったのは内緒です。多めに水は用意した方がいいです。
駅から歩いてすぐ、高幡不動尊に到着。歩いたのは7月上旬ですが、アジサイの季節ということもあって多くの人がアジサイを見に来ていました。
境内に入り、近藤勇の銅像を過ぎたら左へ、そこから山を登っていきます。トイレは境内にあります。
そのアジサイはこんな感じ。綺麗に咲いていました。が、アジサイが目的ではないので足早に通過します。
14:00頃、高幡不動尊の境内を登り切りました。この辺まで来るとアジサイはないので人影はまばらです。
ちなみに、境内の下の標高は約70m、上は約120mなので、この間だけで50mも登っています。
ここから先は尾根に沿って歩いていくことになります。
境内を抜けると住宅地になります。ハイキングが流行した昭和初期は草木の中を進むようなハイキングコースらしい場所だったようですが、現在は当時の面影はありません。
なお、ハイキングが流行した当時はこの付近に「ピンヘット山」という場所があったようです。どうやらここにあった山の上に煙草のピンヘットの看板があり目立ったことからそう呼ばれていたようですが、もちろんその面影も今はありません。
当時のハイキングコースの資料を見ると目印としてよく書かれているので、よほど目立つ存在だったんでしょうね。どんなんだったのかなぁ・・・
住宅地の間から見えた景色。日野市の日野駅の方を見ています。遠くの方まで見渡せますね。
この反対側の程久保方面もいい景色でした。
2,3回交差点を屈折した後、南平東地区センターの横の階段を登っていきます。
ここから多摩動物公園の西側の際を延々と歩いていくことになります。
こんな感じの路が延々と続きます。左側が多摩動物公園で、フェンスで囲われていました。
道は草が刈られてはいますが、ところどころ不十分なところもあります。それより蚊がわんさかいて大変でした。止まると刺されます。
こう見えて意外とアップダウンがあるので大変な道です。景色が変わらないのがね。
南平2丁目付近、一部分だけ景色を望める場所がありました。なかなかの景色です。
この先100mほど住宅地に出ますが、道なりに進んで再び多摩動物公園の際の道に戻ります。
途中で園内の施設が見えたり。
そんなこんなしていると、七生公園の園内に合流します。ここから坂を下り都道155号に降りていきます。
(大分省略しています。小さな橋があったり、鉄塔の横を通り抜けたりします。)
途中であった案内板。現在は「かたらいの路」と名付けられているんですね。「都立多摩丘陵自然公園」の存在も微妙。
都道155号線に合流。14:45頃。ここから今度は多摩テック跡地の南側を回って進みます。この続きは次回。
撮影日:2017年7月2日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。
コメント
60数年前の面影、まばらに残っているんですね。
あまりの変わり様に今更ながら我が歳を自覚します。
でも、この様な情景を見るのも楽しく、嬉しいものです。
ありがとうございます。
残っているのは本当に断片的で、大部分が住宅地になってしまっているようですね。
当時の様子は知らないのですが、当時の写真を見ると実に長閑な場所だったんだなと、今の景色との違いに驚きます。