Googleマップで表示される知らない場所に行って見よう(史跡編)

突然ですが、Googleマップって見にくくないですか。

一番に「慣れ」ってのがあるとは思うのですが、道路の幅が実際とは違っていたり、アイコンの優先順位がおかしかったり、色使いが微妙だったり、どうも私には見にくいものです。

地図は「取捨選択」だと思うのですが、それができていないのかなぁ……と感じたりします。やっぱり私には紙の地図が手放せません。

もちろん、GIS的にWEB地図としての利点もたくさんあると思います。検索履歴から同じジャンルのアイコンを優先表示したり

ただ・・・ときにはこういうように

おまえ何もんだ!!
ということが発生します。じゃあ、そこへ行って何か確かめてみようじゃないか
というのが今回の企画です。史跡編 前置きが長くなりました。

その1 明治天皇御野立所跡の碑

都立桜ヶ丘公園の駐車場出入口付近にある石碑。何度か来たことがある場所ですが、この石碑の存在には初めて気づきました。

明治天皇御野立所
海軍大将末次信正謹書

明治十五年二月十五日夜同十七秊三月二十九日御兔狩行幸ノ御時御假小屋ヲ建設シ御晝餐所ニ充テタル御聖蹟ニシテ大松山御晝餐所ト稱シ奉ル
皇紀二千六百年仲秋

この辺りは「聖蹟桜ヶ丘」などと言うくらいで、明治天皇が連光寺にうさぎ狩りに訪れたことは、この辺りの歴史を少し調べたことがある人は聞いたことがあるかもしれません。

その2 小野小町歌碑

多摩市の向ノ丘にある歌碑です

この歌は、『新勅撰和歌集』第十九(藤原定家撰、文久二年=一二三五年完成)に収められている小野小町の和歌です。小野小町は平安時代前期・九世紀の女流歌人で、六歌仙(平安時代を代表する六人の歌人、小野小町・藤原業平・僧正遍昭・大伴黒主・文屋康秀・喜撰法師をいう)の一人として知られています。若は、彼女が父を尋ねてみちのくに行く途中に、武蔵野の向ノ岡を詠んだものと伝えられています。

碑は昭和十五年(一九四〇)秋、わかもと製薬株式会社・社長の長生欽弥が揮毫し、建てたものです。

題しら須
小野こま遅
武蔵 能ノ むかひの遠か農 具佐 なれ盤
ねを尋ねて毛 あはれと所 於裳ふ
昭和庚辰秋
長岡欽彌書并建之

平成十七年八月 多摩市教育委員会

ここにこんなものがあったのかと、ここでも為になりました。

この近くにある「ゆうひの丘展望台」からの眺めはよく、テレビドラマやCMでもよく使われています。不勉強のため和歌はさっぱりですが、なんとなくわかるものがある……か……な?

その3 関戸古戦場跡

旧鎌倉街道沿い「大栗橋」バス停そばにあります。

最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘三(一、三三三)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、五月十六日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、六日後に首都鎌倉を征圧した。

多摩市教育委員会

分倍河原と関戸の戦いについては聞いたことがありましたが、この場所にポールが立っているんですね。鎌倉街道、この道を行けば鎌倉だったわけです。

その4 落川遺跡

多摩川の府中四谷橋付近にあります。

東京都指定史跡 落川遺跡
所在地:日野市落川八一九
指 定:昭和六十二年二月二十四日

 本遺跡は多摩地域に多く存在する台地、丘陵上の遺跡とは異なり沖積微高地上に立地する稀有な遺跡である。その沖積備考地上に四世紀末~五世紀初頭に集落形成が開始され、以降、十四世紀初頭にいたるまで連続的に集落が営まれている。
 (略)
 発掘された遺跡は竪穴建物跡、掘立柱建物跡、井戸跡、鍛冶炉、祭祀跡等である。
 建物では、鎌、鍬、鋤などの農機具、鉄鏃、刀装具、短刀などの武器類、馬具などが多量に出土しており、これらの遺構、建物は武士集団の居住関係を解明するうえで貴重な手がかりになるものと考えられる。

平成十八年三月一日

こんな場所に、こんなものがあるとは知りませんでした。といっても今は公園のように開放されていて、特に何もありません。

その5 高倉塚古墳

分倍河原付近、住宅街にこんもりとある古墳です。

府中市指定文化財(市史跡) 高倉塚古墳
平成13年10月30日指定
 府中崖線(ハケ)の斜面に広がるこの周辺には、これまで確認されている古墳が25基あり、これらは高倉古墳群と呼ばれています。このうち墳丘が残っているものは4基あり、この高倉塚古墳は古墳群の中心に位置しています。古来より「高倉塚」と呼ばれ、象徴的な存在だったことから中世以降には信仰の対象として保存されてきました。
 これまでの発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坏が出土するなど学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。
 なお、付近の古墳群からは、土器・直刀・鉄鏃・玉類が出土し、昭和の初め頃に出土した銀象嵌大刀を含む大刀5振は、平成6年2月に市の文化財に指定されています。
 (略)
平成17年3月 府中市教育委員会

住宅地の中に古墳が残っているとは知りませんでした。この間訪れた武蔵府中熊野神社古墳からほど近い場所です。

一部が住宅地になってしまっているのが非常に残念なところですが、綺麗な古墳でした。

その6 天王塚古墳

高倉塚古墳からすぐ近く、八雲神社境内にある古墳です。

神社の裏側にこんもりとしたものがあり、それが古墳だそうです。ただ説明書きなどはなく、言われないと古墳だとわからないかなぁ。

その7 旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕

白糸台にある史跡です。

府中市指定文化財(史跡) 旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕
 調布飛行場は昭13(1938)年に東京府によって、東京府北多摩軍多磨村(府中市)・調布町(調布市)・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められました。昭和16(1941)年4月に官民共同の飛行場として設置されましたが。同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されるようになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ(略)特攻隊の訓練も行われました。(略)
 アメリカ運による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に着かれました。この施設を一般的に「掩体壕」と呼んでいます。(略)
 調布飛行場周辺では、(略)有蓋約30基・無蓋約30基、あわせて約60基の掩体壕が作られました。(略)
 終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野公園内に2基、府中市内に2基、計4基の有害掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基がこの旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕です。(略)

存在は知っていましたが初めて来ました。いろいろ考えさせられる史跡です。

その8 近藤勇生家跡

人見街道沿い、都立野川公園駐車場出入口付近にありました。

市史跡 近藤勇生家跡
指定 昭和五十二年四月二十五日
 この地は新選組組長近藤勇の生家跡である。
 近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。(略)
 当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入谷等があり、周囲はケヤキ、カシの他大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。
平成十二年十二月一日再建 調布市教育委員会

聞いたことはあったけどこんな場所にあったのかと驚きました。

どうも戦争の際に調布飛行場の関係で取り壊されたそうです。

その9ラスト 稲城市指定文化財馬頭観世音塔

矢野口近くにあります。

稲城市指定文化財 馬頭観世音塔
 (略)
 この馬頭観世音塔は、多摩川のもとの渡船場の近くにあり、文化十三年(一八一六)に建立され、市内に現存する最古のものである。「馬頭観世音」と文字だけを掘るのが一般的であるから、この石塔のように馬頭観世音を浮き彫りにしたのは数少ない貴重な作例である。台石には願主谷埜口邑やのくちむらを始め造塔に協力した相当に広範囲な十九の村名が記されている。この渡船場の重要さをよく示しているといえよう。
平成三年十二月十日 稲城市教育委員会

見落としがちなこういうのも歴史を紐解く重要な史跡なんだなぁと感じました。

以上、9か所を回ってみて、知らないことを知ることができたし、なかなか楽しかったかな。
おわり。

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