小田急小田原線の新百合ヶ丘旧線をたどる

今年4月に150万都市となった神奈川県川崎市。全国的な人口減少の中、人口が増えているそんな川崎市の北の副都心「新百合ヶ丘」、通称「しんゆり」に小田急小田原線の古い線路跡があります。

新百合ヶ丘駅が開設されたのは1974年のこと。多摩ニュータウンへのアクセス路線として多摩線の建設が検討された際、百合ヶ丘駅付近からの分岐が考えられましたが、当時付近はS字カーブで運転の支障になることが懸念されたため線路を付け替えそこに新百合ヶ丘駅が開設されました。

新百合ヶ丘駅開設までは小田急小田原線は津久井道(世田谷町田線)にそってS字カーブをしていました(地図上赤破線)。

出所の明示:この地図は国土地理院発行の『25000分の1地形図(溝口)昭和41年改測』の一部を抜き出して使用したものである。

線路が付け替える前の地形図を見てもその線形がよくわかります。当時のこのS字カーブは旧型の電車では難所でもあったというのは昔何かで読みました。

小田急線開業当初は柿生駅~読売ランド前駅(当時は西生田駅)まで駅がなく人家も少なかったようです。この地図は百合ヶ丘駅もできて住宅地ができ始めているころ。新百合ヶ丘駅はもちろんありません。

イトマンスイミングスール新百合ヶ丘校前の歩道橋から柿生方面を見ています。

右側に津久井道があり、この先で右側に逸れて行きます。小田急線はこの津久井道に沿っていたと思われます。

大きくカーブした線路は現在フィットネスクラブがある場所へ抜けていたと思われます。その角には今でも小田急電鉄の三角形の土地が残っていて、当時の面影が若干あるように思えました。

カーブした線路はこんどは逆向きにカーブし始めますが、しばらくの間面影らしいものはなくなります。一部は区画整理で面的に整備されたところもあり、当時の航空写真を見ても線路付け替え後早期から面影が消えている場所も見受けられました。

この写真では写真に写る遊歩道と右側の建物敷地にかけて線路用地だったようですが、もう全然わからなくなっていました。

区画整理ですが、この地区でまちづくりが始まったのは1969年に地元地権者による「農住相談会」が結成されてからです。これは小田急線が線路付け替えをする前です。

1972年には区画整理組合準備会を結成、1974年の新百合ヶ丘駅開設後も「農住都市構想」を母体としながら、1977年4月に新百合丘駅周辺土地区画整理組合の設立が認可され、1984年5月までの間「川崎都市計画事業新百合丘駅周辺特定土地区画整理事業」が行われました。施行区域は約46.4ha。

1981年には上物建設や管理運営を行うため地権者らで「新百合丘農住都市開発株式会社」を設立。現在ではイオン(ビブレ)の入る建物の所有者でもあるようです。

そんなこんなで、現在の新百合ヶ丘の整理された街並みができたのは、住民らによるまちづくりがなされた結果なのかもしれません。

さて、新百合ヶ丘駅から北へ伸びる道との交差付近。この正面ビルの右側付近に線路があったようです。

1枚上の写真から回れ右をした景色。ここは正面の道路の左側が区画整理の施行範囲で、右側はそうではありません。右側の方は若干ごちゃついているように見えます。

線路は右側のコインパーキングとその右側あたりを奥に通っていたようです。コインパーキングの敷地が線路1つ分の幅に見えなくもないです。

道なりに進みます。この道は古くからあったようで、古くの津久井道でもあるようです。線路はこれの右側らしい。本当に線路の面影がありません。

このあたりには少し前までイトマンスイミングスクールがあり私も通っていました。10年ほど前に現在地に移転しました。現在跡地はマンションとなっています。マンションの向こう側に現在の津久井道が通っています。

しばらく進むと麻生警察署前の通りにぶつかるます。当時ここに道はありませんでした。現在のスエヒロ館のほうへ進みます。

スエヒロ館の裏側で麻生川を越えます。現在、支流と合流する付近で交わっていたと思われます。当時の航空写真を見るとまだ河川改修をしていなかったようなので、護岸にも当時の形跡は感じられません。

そして2度目の麻生川を越えます。この辺りの河川改修が当時完了していたかどうかは航空写真から判断が難しいです。ただ、当時交差していたと思われる付近は護岸が若干異なっています。何らかの形跡なのかもしれません。

ここまであまりにも当時の痕跡が少ないので、法務局に行ってこの付近の公図を取ってきました。そのまま載せるわけにはいかないのでその線を書き出してみると、ピンク色に着色した部分の地番が妙な線形になっていました。現在はマンションや自動車販売店として使われています。

土地の幅も線路用地の幅とほぼ一致するので、もしかしたら地番として当時の面影が残っているのかもしれません。

この先、工務店の用地を抜けると、現在の航空写真でも確認できる縦長の土地が柿生方面まで続いています。現在は放置自転車の保管場や、ソーラーパネルが設置されています。

小田急多摩線の高架橋をくぐり現在の小田急小田原線に近づきます。かつての線路部分は保線場として利用されていました。

旧線の柿生側の分岐部分はこんな感じ。現在ある保線場に分岐する線路があります。かつては坂を上らずそのまままっすぐ線路が伸びていたのでしょう。

線路の移設から40年余りが過ぎ、当時の面影はほとんどない小田急線の旧線でした。線路の付け替えによって誕生した「新百合ヶ丘」も当時からは想像がつかないほど発展したのでしょう。このころに行ってみたいな…と。

参考資料

・『25000分の1地形図(溝口)昭和41年改測』
・『新百合丘-ふるさとの心が鼓動するまちづくり-』著者:地域社会計画センター、出版:川崎市企画調整局、1984年
土地区画整理事業>完了した土地区画整理事業>完了地区概要-川崎市
・地籍図-川崎市麻生区古沢地内の一部
地図・空中写真閲覧サービス-国土地理院
・『ふるさとの心が鼓動するまちづくり-新百合丘駅周辺特定土地区画整理事業のあゆみ-』編者:新百合丘駅周辺土地区画整理組合、出版:新百合丘駅周辺土地区画整理組合、1985年

撮影日:2017年6月12日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました