横浜青葉インター北側のインターチェンジ予定地のような土地は何?

東名高速道路E1東名川崎IC横浜青葉IC間に、「インターチェンジ予定地のような土地」があります。

わかりますか?

Googleマップで見てみると、もっとわかりやすいかもしれません。

もう見えましたね?

地図・空中写真閲覧サービスの規約上、申請なしで航空写真に加筆できないようなので、見えたものとして進めます。

今回はこの土地が何なのか調べてみました。

改めて航空写真を見てみる

2019年撮影の航空写真をもう少し広域で見てみましょう。

南側(左下)には横浜青葉ICがあります。左上には東急田園都市線の市が尾駅があります。

周辺は整然とした道路が整備され、戸建て住宅を中心に、一部に集合住宅もある住宅地であることがわかります。

ただし、インターチェンジ予定地のような土地東名高速道路から離れるにしたがって、不明瞭になっています。

周辺の状況を示すとこんな感じ。

この一帯は1960年代~90年代にかけて土地区画整理事業が行われました。上の図では作図の都合上4か所のみ記載しています。

こうやって見てみると、1967年に認可された下市ケ尾第一土地区画整理事業と、1975年に認可された市ケ尾川和土地区画整理事業の区域内では用地が確保されていますが、それ以降に認可された泉田向土地区画整理事業や港北ニュータウンの1つである横浜北部新都市第二地区土地区画整理事業では用地が確保されていません。

この土地は何なのか

では、このインターチェンジ予定地のような土地は何なのか。

ある新聞記事に答えがありました。

この新聞記事は現在の横浜青葉ICの新設に向けて動きだした、1991年の記事です。

特に左側の記事を見ると、「横浜緑インターの用地については、昭和40年代に市ヶ尾の区画整理事業が行われた際、市がインター用地としてあらかじめ約2haを確保。」と書かれています。

これこそが答え。市が確保したインター予定地でした。

さらに読み進めると、横浜環状道路の構想も生まれ、また住宅地に近接していることから、現在の横浜青葉ICの場所に予定地を変更したことがわかります。

補足説明
・当時は東名川崎ICの次は横浜IC(現在の横浜町田IC)で、横浜青葉ICは存在しませんでした。
・当時は緑区が港北区等に分区する前であったため、横浜緑インターチェンジという仮称でした。

何のためのインターチェンジ予定地だったのか

1つ疑問が残ります。何のためのインターチェンジ予定地だったのか。

交通の結節点になりそうな国道246号246とは逆を向いていて、その出口となる道路もよくわかりません。

下市ケ尾第一土地区画整理事業市ケ尾川和土地区画整理事業泉田向土地区画整理事業の事業誌のようなものを見れば答えがあるはずだと探してみましたが、見つかりませんでした。(これらは組合(民間)が施行)

一方で、港北ニュータウンの資料をあたってみるとヒントがありました。

港北ニュータウン

そもそも港北ニュータウンは、1965年に「横浜市六大事業」の1つとして発表されました。このうちの約1,341haは、日本住宅公団(現在のUR都市機構)が土地区画整理事業を行い、現在のセンター北駅・センター南駅を中心に計画的なまちづくりが行われました。

こうしたニュータウンの計画策定作業を進める中で、1970年にパイロットプラン(基本構想)の最終案として示されたのがこの図です。左にインターチェンジがあります。

なお、港北ニュータウンの計画当初から、当時建設省において検討が進められていた「東京第2外郭環状線」と「東京厚木線」を与条件として計画が進められており、この図面にもこの2つの広域道路があるのがわかります。

『港北ニュータウン交通計画 1971-72』より

港北ニュータウン交通計画1971-72では「ニュータウン内道路システム」としてこのように模式的に示されています。

市が尾のインターチェンジは一般道を経由し、東京第2外郭環状線(第二外環道路)と繋がっています。

これらを鑑みると、市が尾のインターチェンジ東名高速道路から港北ニュータウンにアクセスするともに、東京第2外郭環状線へも繋がる性格をもったインターチェンジとして構想されていたものと考えられます。

横浜市六大事業のうちの1つが「港北ニュータウン」、ほかの1つが「高速道路網建設事業」であったことを考えると、こうした用地を確保しておいたことも分からなくもありません。

なお、『港北ニュータウン 四半世紀の都市づくりの記録』によると、

(第二外郭環状道路及び東京厚木線は)公団の土地区画整理事業の事業計画認可申請までに都市計画決定される見通しがたたなかったため、その後の事業計画には現れることなく現在に至っている。

とあり、港北ニュータウンの計画には載らず、これら2つの広域道路の構想も消え、あの位置での市が尾のインターチェンジの必要性も薄まっていったのでしょう。

東京第2外郭環状線はのちの核都市広域幹線道路などの構想に繋がっていきます。そのころになると横浜環状道路の構想もでき、現在の横浜北西線などを踏襲するような港北ニュータウンを経由しないルートを構想するようになっていきます。多摩ニュータウン開発においても核都市広域幹線道路のルートが一時検討された時期がありましたが、現在のところ多摩・立川・埼玉方面へは特に具体化はせず、ときどき構想として挙がるものの現段階ではそれほど重要視されていないように思います。特にルートが決まっているわけでもありません。

結論

インターチェンジ予定地のような土地が何なのか・・・の結論は、

昭和40年代に横浜市が土地区画整理事業に合わせてインターチェンジ用地として買収した市有地で、港北ニュータウン計画などで一時検討されたものの具体化はせず、その後横浜緑インター(現:横浜青葉インター)の設置が検討された際には、手狭であること、住宅が密集していること、横浜環状線構想の存在などから使われなかった土地。

です。

現地にも行ってみたんですが、結構起伏があって走っていたらわからないですね。

右側(北側)の一部は遺跡や公園として開放されていて、左の予定地だった場所にはマンションが建てられていますが横浜市住宅供給公社のもののようで、そのあたりも痕跡なのかも。

コメント

  1. Rubicon より:

    いつも楽しく拝見しております。
    記事を見て思い出したのですが、横浜上麻生線から東名の下で分岐してららぽーと横浜に向かう池辺市ヶ尾線ですが、かねてより立派な中央分離帯を不自然に感じていました。
    これは元々、北西線(第二外環・核都市道)の予定地で高架を作るための中央分離帯で、最終的に今回の記事のインターチェンジに接続するのではないのかなと、思いました。
    明確な根拠は私の調べた限りでは出てこなかったのですが、何かわかったら記事にしていただけると幸いです。

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      しっかりと調べてませんが、直感的には関係ないような気がします。
      機会があったら調べてみます。

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