立川3・3・30号立川東大和線と国立3・3・15号中新田立川線の着手前の現況をレポートしています。
「その2」の続きです。概要は「その1」に記載しています。下記より参照してください。
写真等 JR中央線付近~立川南通り
今回はJR中央線付近~立川南通りまでの状況です。
「その1」でも書きましたが、北側の泉体育館駅付近~都道145号線145までの区間は、既に環境影響評価や都市計画変更といった手続きが行われており、事業化に向けた準備が進められています。
都道145号線145より南側はいまのところそういった準備の話は聞こえてきませんが、いわゆる第四次事業化計画の優先整備路線に選定されています。
この記事では現在の都市計画をもとに書きます。今後事業化に当たり変更がある可能性がありますのでご注意ください。
撮影位置は上の図の通りです。
この記事「その3」で扱う範囲は、計画されている区間でもっとも戸建て住宅が密集している地区ともいえます。
写真を撮影している位置は、将来の道路の歩道と車道の境目あたりかと思われます。その先丁字路あたりが道路境界でしょうか。(道路区域は測量などにより確定して行くことになります)
この道路、かなり古くからあるようで、明治時代の地形図にも書かれています。
この付近は将来の道路の真ん中でしょうか。
このような看板がちらほらありました。
「羽衣町の街づくりを考える会」というグループができているようです。名前が変わったという情報もありますがよくわかりません。
東八道路(西原町~谷保間)や、新府中街道(小平市域)、小金井3・4・11号、南多摩尾根幹線(1970年代)などでも反対運動がありました(あります)。
左側車列の最後尾付近でほぼ直角に道路が交わる予定です。
ここから北側(右側)が現在、都市計画変更や環境影響評価の手続きが行われています。南側(左側)も時期に準備が行われていくものと思われます。
この道路は幅16mで都市計画決定されていますが、現在はそれだけの幅で造られていません(おそらく12mくらい?)。右折レーンを造る目的でもしかしたら拡幅する……かもしれませんがわかりません。
この辺りの古い航空写真を見ると、1941年には雑木林のようだった場所が、1947年には住宅地へ変貌しています。そのころの住宅地の道路区画が現在でも残っているようで、周辺と違った細かい区画はそのときの名残のようです。
どういう経緯で住宅地を作ったのだろうかと気になっていました。どうも住宅営団が関係しているようで、軍事関係もありそうですが、詳しくわからないので、これを調べるのは私の宿題としますかね。住宅営団自体はGHQにより解体されて、この付近は今では民有地の住宅地となっているようです。
このあたり、南北にやや広い道路が突き抜けています。この道路も戦時中にできたもののようです。
立川東大和線はこの道路の東側(左側)に拡幅するような形で計画されています。
この道路は広いですが、交通量は多くありません。
現道は立川南通りに信号のない交差点でぶつかります。
この先は国立市となり、都市計画道路名称は中新田立川線と変わります。
ただし、国立市域の中新田立川線も含めて「立川東大和線」と呼ぶことが多くあります。都道の名前としても「立川東大和線」があります。
計画されている道路はこのさきまっすぐと抜け、矢川三丁目交差点まで繋がる予定です。
立川東大和線・中新田立川線 着手前現況2018.9 その4
撮影日:2018年9月19日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。
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