このブログでは何度か多摩川の治水、水害の地を訪問してきましたが、今回はもうちょっとちゃんと見てみようと何箇所か訪問してみました。
羽田・旧レンガ提
最初に訪れたのは京急空港線大鳥居駅から多摩川に向かった場所にある旧レンガ堤です。ちょうど大師橋の大田区側に存在します。
多摩川の整備の歴史は実は浅く、昨年(2018年)は改修からちょうど100周年ということで色々なイベントが開かれていました。
この羽田・旧レンガ提は1923年に発生した関東大震災で崩壊した工場施設の荷上施設の足場をしっかり築くためにつくられたと言われています(京浜河川事務所HPより)。
レンガが積み上げられた堤が連続して続いていました。
現在はこのレンガ堤の川側にちゃんとした堤防が築かれていて、レンガ堤が直接的な堤防の役割を果たしているわけではないようです。
建ち並ぶ民家や事業所が擁壁として使用している箇所もあって、ちょっと面白い光景になっていました。
有吉堤
さて、羽田から上流に向かってもいいのですが、少し上流にある堤防跡に向かってみましょう。
宿河原~平間付近でこっそり現れる微高地が「有吉堤」です。周囲は完全に住宅街です。これが多摩川の治水を語る上で欠かせない場所なのです。
石碑も置かれています。
ちょうどこれを読んでみましょう。
うしろの小高い道路が、有吉堤です。この道路、左手はその先の中丸子交差点を左折し、ガス橋手前で多摩川の堤防下に出ます。さらに橋を渡らずに進んで、天神台辺りまで続いていました。
一方右手は、そのまま進んで、下沼部小学校横を通って上丸子方面へと達し、日枝神社近くまで延びていて、併せて2.2kmほどになります。その有吉堤、百年前の大正5年(1916)に竣工しました。この代用堤防築造で尽力された有吉県知事の名をつけました。
実は多摩川は、昔から大雨が降るたびに反乱・洪水をひきおこす「あばれ川」でした。多くの田畑が見ずに浸かり、時には家まで水浸しになりました。明治40年(1907)、43年(1910)と大水害が続き、橋が流され、道路がくずされ、家までおし流されました。
あいつぐ大水害に驚いた国は、全国65河川を直轄河川にして大改修にとりかかることにしました。ところが、戦争続きで財政事情が許さず、まず第一期河川の20河川を先行することにしたのです。ところが多摩川は残り第二期河川の45河川に組み込まれて、後回しになってしまいました。そこで大正3年(1914)、アミガサ事件が起きました。国がだめなら県に頼もうと、御幸、日吉、住吉、町田(現在の矢向)の四カ村が目印のチョンボリガサ(アミガサ)を付けて、神奈川県庁に「大挙陳情」を決行したのです。県知事は代表者たちだけと会い、しかも大勢で来たことを説諭するさまでした。
この事件がきっかけとなって、多摩川築造期成同盟がつくられ、運動が右岸下流域の村々を巻き込んで広がりました。
やがれ有吉忠一県知事にかわると、すぐに実状調査が行われ、「道路改修になをかけた代用堤防」とう地元の要望が受け入れられ、県費負担で工事が始まったのです。工事には地元の人たちも、進んで参加しました。
ところが、対岸東京側から激しい反対運動が起こりました。対岸に堤防ができると、地元の洪水がひどくなるといって、国に働きかけ、工事中止命令を出させたのです。しかし、有吉知事はいっとき、この命令を無視して築造工事を続行しました。
さらには、その後の国庫半額負担(残りは地元負担)の多摩川改修工事にあたっても、二回にわたって県議会を開き、工事実現に尽力したのです。
このような、アミガサ事件から始まって、有吉貞竣工にいたる、多摩川下流域住民の築造にかけた願いは、間もなく実を結びました。国は大正6年(1917)、地元の府県の半額負担を条件に、国庫半額負担による多摩川改修事業を早めて行うことに決めたのです。
この事業は大正7年(1918)に着工、十数年の歳月を要して、昭和9年3月(1934)に竣工しました。以後、多摩川沿岸からは狛江水害を除いて、大水害は姿を消しました。
ところで、先の国からの中止命令無視で、有吉知事は始末書を書かされ、謹慎処分を受けました。後年、この処分を「県民のために公利を計った」のだから、「名誉な謹慎だ」と回顧しています。
有吉堤竣工100年を記念して(文責・長島保)
2016(平成28)年10月30日
有吉堤竣工100年の会
1925年(大正14年)発行地形図「川崎」
大正時代の地図を見ると、この有吉堤を境に集落があり、多摩川流路もそれほど定まっていない様子が見て取れます。
というわけで、住宅街の中にこっそりとある微高地が多摩川治水の原点であることを静かに教えてくれています。
六郷水門
さて、再び下流側に戻って左岸側にある「六郷水門」です。
雑色駅から商店街沿いに進むとあります。
この水門は六郷用水が多摩川に注ぐ地点にあります。
六郷用水は1600年前後に掘られ、狛江市から取水し流れていた用水路です。昭和に入ると田畑の減少や人口の増加により用水路に直接流れ込む水量が増え、また多摩川の水位が上がった際に逆流することがありました。
その対策として多摩川改修工事(有吉堤参照)で造られたのがこの水門です。
現在ではあまり使われることはなくなったそうですが、当時の姿を残しているといいます。
河港水門
六郷水門の対岸にあるのが河港水門です。
このユニークな形状をしているのが河港水門です。
多摩川改修工事の一環で河港を造ることになり、堤防が途切れることから造られたのがこの水門です。また、当時川崎市では運河計画があり、ここから掘り進めていました。運河計画は戦時体制などから220m進んだ地点で中断したといいます。
1998年には国の登録有形文化財にも登録されています。
運河計画というのはこういうもので、3本計画されていたようです。計画自体は1943年(昭和18年)に廃止されています。また、この付近は戦後の復興土地区画整理事業で街区が整備されました。
運河ができていたなら、川崎駅から海側の街並みもちょっと違ったものになっていたのかもしれないなぁ……と想像すると面白いですね。川崎は川崎かな?
この水門の建設にあたっては現在の味の素から多額の寄付があったそうです。いまも隣にあります。
旧堤防と玉川西陸閘
再掲です。
二子玉川駅を降りて多摩堤通り沿いに歩くと見えてくるこんもりしたのが旧堤防です。
そして、その堤防にある切込みを陸閘(りっこう)といいます。車が1台通れるくらいの幅があります。
多摩川改修工事において、この付近でも堤防を造ることになりました。当初、多摩川と料亭などの建物の間に堤防を築く予定でしたが、眺めが悪くなるということから、料亭よりも堤内地側に築かれた堤防がこれです。
一方、堤防を越えるのに一苦労であることから、切込みを入れたのがこの陸閘です。増水時には締め切ることで浸水を防ぎます。ちゃんと締め切るための切込みがあるのがわかります。
旧堤防から多摩川方面を見ています。
実はこのあたり、つい最近まで旧堤防の堤外地側に堤防がない「無堤部」地域でした。京浜河川事務所等関係者が頑張って完成させたようです。
ちなみに……二子玉川公園あたりはいわゆるスーパー堤防です。
久地かすみ堤
実は多摩川にもあるのを知らなかった「かすみ堤」です。霞堤とも書きます。
霞堤とは固有名詞ではなく、このような形と機能をもった堤防のことをいいます。
増水時に堤内地に水を流入させ、水が引くと徐々に排水していく仕組みです。
戦国時代、武田信玄が造らせたと言われる山梨県の釜無川の信玄堤にも霞堤が存在し、その当時からの技術であることがわかります。ちなみに日本各地の川に似たようなものがあったりします。
久地かすみ堤については江戸中期に造られ大正期に拡張されたと言われているそうです。
現在はこのように盛り上がった土地に桜の木が植えられています。地図や航空写真でもはっきりとその姿が見て取れます。
ただ古い写真を見ると、霞堤の特徴であるような二重の堤防になっていないですし、霞堤としての役割があったのかなと疑問に思います。溝口の街道沿いと集落を守る役割が大きかったようにも見えます。
久地かすみ堤は地元の方に大切にされているようです。
現在は市街化も進み、新しい堤防もできて役目はほとんど終わっています。
かすみ堤は国の土地で国が管理しています。2007年頃には売却も検討されましたが、市議会でも議論され、国が引き続き管理することになりました。
しかし、この看板、建設省(現:国土交通省)や京浜工事事務所(現:京浜河川事務所)と古いなぁ・・・
他にも多摩川の治水・利水・水防で見ておきたい場所がありますが、次の機会にします。
撮影日:2019年3月18日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。
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