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稲城市の「中の橋バス停」、「中の橋」が存在しない問題

稲城市の稲城駅に近い場所に「中の橋」という名前のバス停があります。

鶴川街道上にあり、稲城駅~柿生駅・駒沢学園などを結ぶ路線として、時間帯によりばらつきはあるものの、1時間に2~9本が運行されています。

週に1往復だけ神奈中バスも運行していますが、ほとんどの便は小田急バスの運行です。

バス停の名前は至って普通で、割とどこにでもある名前のバス停です。

しかし、問題が。

現在、「中の橋」という橋は存在しない。

今回は「中の橋」って何なんだ?ということで調べたのでまとめました。

例によって結論は出ておりません。(おいっ)

現状の確認

現在の三沢川の橋

この付近には三沢川みさわがわという川が流れています。川崎市麻生区黒川を源流とし、稲城市を横断し、川崎市多摩区の稲田堤付近で多摩川に注ぐ河川です。

この三沢川現在の橋の名前を見てみます。

中の橋バス停付近には、上の車橋砂場すなばの橋神王しんのう稲城中央橋という名前の橋があります。

そして、稲城駅方面の中の橋バス停砂場すなばの橋の上にあります。

旧河川の存在

付近の三沢川は河川事業・土地区画整理事業によって付け替えられています。

稲城第一土地区画整理事業が行われた箇所は旧河川は消滅している一方で、河川事業として付け替えられた神王橋から上流(西側)については旧河川が現存しています。

旧河川が残っている神王橋上の車橋の間には現在、水はほぼ流れていないものの、いくつかの橋も残っています。

鶴川街道に架かっているのは新田にったといい、現在でも橋梁という形で残っています。

柿生駅方面の中の橋バス停は写真左側のカーブミラー奥にあります。

稲城駅方面の中の橋バス停もかつては写真正面の住宅前付近にありましたが、住宅の建て替えに伴い4年ほど前に若干移動しました。

橋なのかよくわからないもの」と記載したのはこの写真で、橋ではないようですが、水路を跨いでいます。

名称が記載されたものは現地に存在していません。

約1.5km上流にある「中橋」

実は、中の橋バス停から上流に「中橋」という橋が2つ架かっています。

鶴川街道に架かっている「中橋」は「なかはし」と読みます。

「なかはし」の隣にある「中橋」は「なかばし」と濁って読みます。

「なかばし」の道は鶴川街道よりも古い道のようです。

「中の橋」の仮説の設定

今回は、「中の橋」って何なんだ?を解き明かすため、いくつかの仮説を設定し、それについて1つずつ検証していきました。

(仮説1)かつて「中の橋」という橋が存在した説

(仮説2)「中の橋」という地名、あるいは「なかのはし」と読む地名(中野端など)が存在した説

(仮説3)バス停が移動した説

 

(仮説1)は単純で、昔は「中の橋」という橋が存在し、それがバス停の名前の由来となっている説です。

(仮説2)は実は地名に「なかのはし」というものがあるという説、または、昔は「なかのはし」という地名が存在した説。なお、現在の地名は「百村もむら」で、字以下は一号、二号という数字の字となっています。

(仮説3)は別の場所にあったバス停が何らかの理由で移設した説。具体的には、上の項に書いた「中橋」の近くにあったバス停が移動したという説です。
中の橋バス停の4つ隣にある「県境バス停」は設置当初より約900m移動したということもあり、「中の橋バス停」も移動した可能性もあります。

(仮説3)の検証 バス停はいつから存在したのか

順番が前後しますが、仮説3の検証からしていきます。

ゼンリンの住宅地図 稲城市1982年(個人名は加工しています)

中の橋バス停がいつから存在したのかを確かめるために、稲城市立図書館に存在する最も古い住宅地図を閲覧しました。1982年の住宅地図です。

これでは三沢川は旧流路を流れているとともに、中の橋バス停は現在とほぼ同じ位置にあります。

神王しんのう新田にったといった橋はある一方で、中の橋という橋は存在せず、上の項で「橋なのかよくわからないもの」とした部分にも橋は見当たりません。

これでは手掛かりがないため、東京都立図書館にあるもっと古い住宅地図を郵送複写をお願いして取り寄せました。

ゼンリンの住宅地図 稲城市1973年(個人名は加工しています)

取り寄せたのは1973年のゼンリンの住宅地図です。都立図書館には1967年の住宅地図もありますが、ゼンリンではなくバス停の表記はありませんでした。

これも同様に神王橋新田橋はあり、中の橋バス停は若干位置が異なるもののほぼ同じ位置であると言えるでしょう。また、中の橋という橋は見当たりません。

JR武蔵野線(武蔵野南線)はまだ建設中で、武蔵野線の高架横に細い橋が架かっていますが、おそらく工事用の橋でしょう。

正直なところ、このくらいまで調べれば結論が出るものだと思っていたのですが、結論にはまったく近づきません。

手っ取り早いのは、小田急バスに問い合わせること。下記がその回答です。そのまま載せるわけにはいかないので要約します。

  • 該当路線は武蔵野乗合自動車当時から存在し、小田急バスが引き継いだ路線
  • 小田急バスが引き継いだ1950年11月の国への申請書に添付された路線図に「吉祥寺駅から柿生駅を結ぶ路線」として存在
  • 「中の橋バス停」がいつから存在したかは不明
  • 名前の由来は不明(由来を記す義務がない)
  • バス停の位置を大きく変更した記録はない

武蔵野乗合自動車というのは1932年に設立されたバス会社で、調布~吉祥寺エリアを中心に営業していました。1950年に小田急電鉄が買収し、小田急バスとして引き継がれ現在も営業しています。

この回答からは、少なくとも1950年にはバス路線があるのはわかりますが、いつからバス路線があるのかは不明です。ただし、以前、同路線の「県境バス停」の名前の由来を調べていたときに、同じように問い合わせたところ「1949年12月27日に、調布駅~柿生駅を結ぶ路線として新規設置した」という回答をいただいているので、おそらく1949年でしょう。

またバス停の位置を大きく変更した記録はないことから、(仮説3)バス停が移動した説ではないことは明らかになりました。約1.5km上流の中橋とも関係なさそうです。

(仮説2)の検証 ここの地名は何か

現在のここの地名は稲城市百村もむらです。百村以下には「一号」「二号」といった字がありますが、普段は省略して書かないことも多いと思います。

稲城市教育委員会が発行した『稲城市の地名と旧道』にはと、

モムラ(百村)の地名は、寛永2(1625)年の百村水帳の記録の表題に百村とあり、江戸時代初期からモムラと言い、百村の佳字を当てて今に至っている。モムラはモームラの意と思われる。モは裳で、古代に女子が腰から下に着た襞の多いスカートや男子の礼服で表袴の上に来たスカート状のもののことであり、地域の表面系がモノ形をしているので地名となったものであろう。

稲城市の地名と旧道-稲城市教育委員会

と記載されています。

その1625年の『百村水帳』(地誌編輯取調簿に記載)を見ると、出口白道山下木詰コハナハ清田古川屋舗前タテ屋舗添モロ長者窪栗坪ヒハコロハシ宮ノ前六間台山清田宮ノ台小井土石名坂清水坂篭谷川はた本堂家ノ前漆原関免九日伝と、29の字が記録されています。

また、1828年の『新編武蔵風土記稿』には、漆原大塚關下中谷台山六萬臺舘谷舘台西谷木詰小鼻と、11の字が記録されています。

補足
「地誌編輯取調簿」・・・1875年(明治8年)~1880年(明治13年)頃にかけて各県町村で編成された皇国地誌が中絶した後、これをさらに細分化した内容で臨時修史局から実施されたものと考えられる書物。取調簿には罫紙に沿革、位置、幅員、人口、橋、租税などの調査項目が印刷されている。

「新編武蔵風土記稿」・・・Wikipedia参照

そして、前出の『稲城市の地名と旧道』には、これらの地名の位置が記されています。

中の橋バス停がある付近の地名は、九日田くんちでん西谷戸中ノ谷戸などがあります。

中ノ谷戸は少し似ていますが、これが由来かどうかは何とも言えません。

中ノ谷戸付近と思われる付近

中ノ谷戸というのは、地図から類推するに、中の橋バス停から南へ100mほどの妙見寺付近のことと思われます。

多摩地域では谷筋が伸びた地形のことを「谷戸やと」といいます。この付近も谷筋になっていて、左右には入谷戸・西谷戸がそれぞれあり、その真ん中の谷戸だからこの名前が付いていたそうです。

西谷戸は航空写真で見てもわかるように駒沢学園の北側に伸びる谷戸で昔の姿で残っていますが、入谷戸は土地区画整理事業によって埋められ、現在は「いりやと児童公園」という名前で残る程度になっています。

百村絵図

百村の榎本家では、江戸時代の古文書81点を所蔵しているとされています(榎本家文書)。

このなかに、百村絵図が7点あるとされています。すべて探そうとしたのですが、すべては見つかりませんでした。

北が上になるように転回している

稲城市教育委員会が発行した『稲城市の古文書(一)-江戸時代の村・稲城』には百村絵図のうちの何点かが掲載されていて、そのうちの1つがこの写真です。

ここには、中の橋バス停の付近に「前田」という、これまで出てこなかった地名も書かれています(中央やや左側)。

ここまでをまとめると、中の橋バス停付近には「中ノ谷戸」というちょっと似た名前の地名があったようではあるものの、直接的な関係性は不明です。

よって、(仮説2)「中の橋」という地名があった説 は不明であります。(個人的には違うと思うが断定できない

(仮説1)の検証 「中の橋」という橋は存在したのか

それでは「中の橋」という橋梁は存在したのでしょうか。

バス路線が新設されたと思われる1949年に近い、1948年の航空写真を見てます。

地図・空中写真閲覧サービス(USA-M1121-A-59)

現在の神王橋新田橋といった橋が見られます。

新田橋の上流の「橋?」と記載した位置には、橋があるのかどうか、写真では判別できません。

1/25,000地形図「武蔵府中」昭和29年

1954年の地形図を見ると、「橋?」と記載した位置にはっきりと橋が書かれています。

これが中の橋なのかはわかりません。

1/25,000地形図「武蔵府中」明治39年

さらに古い1906年の地形図を見ると、現在の鶴川街道はできておらず、新田橋以外の橋があります。

現在の鶴川街道ができる前は、現在の神王橋交差点から松の台通りを通り、ワークマンの近くに出る道が街道筋でした。(小野路道や相州街道と呼ばれたそうです)

『稲城市の地名と旧道』によると、特に、現在の神王橋交差点から西側は「赤坂」と呼ばれ、往来に苦心するほどの悪路だったそうです。このことから明治期には新道開墾の請願書が出されるなどし、1928年から1930年にかけて昭和恐慌の失業対策事業として現在のルートが整備されたそうです。

橋の名は?

こうなると、この橋の名前を知るほかないでしょう。

現在の「橋なのかよくわからないもの」

この橋は、記事冒頭で示した「橋なのかよくわからないもの」とほぼ同じ位置に書かれています。

前出の『稲城市の地名と旧道』を読み進めると、このような記載があります。

旧街道から砂場すなっぱの水田に降りて、三沢川を渡って川南の水田に行くための農道があり、この道の三沢川にかかる橋をスナッパの橋と呼んだ。幅6尺(1.8m)の木橋であった。

三沢川の砂場スナッパ橋は、長さ10尺(3m)×幅6尺(1.8m)の板橋で、両端に角柱が渡してあり、川幅は8尺(2.4m)だった。

この橋は「スナッパの橋」もしくは「砂場橋」か!

『稲城市の地名と旧道』より

『稲城市の地名と旧道』には、砂場橋の推定図が書かれています。

また、これらの記述から、この付近は「砂場すなっぱ」と呼ばれていたこともわかります。

さらに、現在の三沢川にかかる「砂場の橋」はどうも2世代目の橋であることもわかりました。(ただ読み方は「すなば」と銘板に書かれている)

・・・

・・・・・・

いやいやいやいや

中の橋じゃないんかい!!

ここで、前出の『地誌編輯取調簿』の橋梁の項目を見ると、明治期の百村には、新田橋村中橋白道橋大塚橋竪谷戸橋長者橋の橋があったことが記録されています。

このうち、白道橋大塚橋竪谷戸橋長者橋については「竪谷戸川架」と書かれており、三沢川ではありません。(※竪谷戸たてやと川とは、現在の南多摩尾根幹線に沿って流れていた三沢川の支流で、その川沿いの谷を「竪谷戸」といいました。多摩ニュータウン開発によって埋め立てられ、その面影はほぼなく、「竪谷戸大橋」といった名前で残っている程度です。)

では、新田橋村中橋・・・

村中橋!?

私はこのとき「キタ!!」と思いました。

この項目のページはこの通り。したが村中橋です。

所在の項目には、「字前田三沢川架村□□属」と書かれています。(村従来属?)

字前田・・・上で「中の橋バス停付近に『前田』という地名があったようだ」と書きました。

ということは、中の橋バス停付近に「村中橋」という橋があったようです。

それで、長:五尋(?)幅:六尺構造:木・・・

長さ以外は前出の「スナッパの橋」と同じです。ということは、スナッパの橋は「村中橋」と呼ばれていたこともあるのか?これが「中の橋バス停」の由来か!?と思ったのですが・・・

いや待てよ?新田橋はどこなんだ?

現在の新田橋が架けられたのは鶴川街道が現在のルートになった1930年頃です。すなわち、明治時代には現在の位置に新田橋は存在していないはずです。(※ただし現在の新田橋は1973年に架け替えられている模様)

また、明治時代には存在していたはずの神王橋の記載は『地誌編輯取調簿』には見当たりません。

これでは「スナッパの橋」が「村中橋」だったとは断定できません。

地元の人に聞こう

妙見尊から見た百村

わからないなら、地元の人に聞くのが一番です。

ということで、某日、中の橋バス停付近で外にいる高齢者の方数名に突撃で聞いてきました。滅茶苦茶怪しまれましたし、さすがにインターホン押して聞くのはできませんでした。

結論としては、「わからない」です。「昔から中の橋バス停というけど・・・」とのことでした。

結論

「中の橋」って何なんだ?の結論は・・・

村中橋という橋があったようだが、不明

『写真で見る稲城今昔』より

調べる中で、『写真で見る稲城今昔』に1949年1月18日に「新田橋あたり」で撮影されたと写真がありました。

現在の百村神化児童公園付近から若葉台方面に向いて撮影されたもので、中央に新田橋が見えます。

まぁ・・・こんなのどかな時代があったのですね。

この道にバスが通ることになるわけですが、「なぜ新田橋というバス停にしなかったのか」というのも引っかかるところです。

この鶴川街道には、宮の台、鶴巻(数年前に廃止)、於部屋、坂浜戸隠、日影、入谷戸、下谷戸入口・・・、柿生方面には仲谷戸、吾妻・・・といった古い地名のバス停が残されています。こういうのって、バス停の名前が変わったりすると、一瞬で忘れ去られてしまうのでしょうね。

「中の橋」が何なのかについては、引き続き情報を募集しております。

コメント

  1. にゃー より:

    今回も大変興味深い記事で読み応えがあり、
    非常に楽しかったです。

    ここまで調べ上げるとは、もうプロですね!

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      ありがとうございます。
      相変わらず結論が出ないのが残念です。

      最近はネットで調べる(これを調べると言っていいのかよく疑問になるのだが)と何でも出てきますが、出てこないことを調べるのは調べ甲斐がありますね。

  2. sho より:

    面白いですね.
    推理が進展することを祈っております.

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      ありがとうございます。
      これも結構長いこと調べていたのですが、手詰まりを感じたので掲載しました。
      お寺の住職に聞いたらわかるかなぁ・・・と思いつつ、そこまでの行動力は起こっていません・・・

  3. ななぞう より:

    坂浜の自治会の地域割りに「宮の台、鶴巻(数年前に廃止)、於部屋」って有るからバス停が無くなっても、消えないだろうな。
    ただ、住所表記にも現れないし、アパート住まいとかで、自治会に入らないと判らないだろうね。

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      そうなんですね。外部からは全くわからないのが残念ですね。
      これも仮に何らかの理由で地域割りを変更したりすると、一気に忘れ去られていきそうな気がします。

  4. ぽん より:

    いつも楽しく拝見しています。

    皇国地誌の西暦が1980年になっていますよ。

  5. 匿名 より:

    村中橋が存在していたので新田橋と名付けしたのでは?

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      ごめんなさい、ちょっと理解できていないのですが、『地誌編輯取調簿』の記録によると、新田橋は村中橋よりも早く架設されていたことになっていて、この記録当初の新田橋がどの橋なのかわかっておりません。

      • 匿名 より:

        貴殿のおっしゃる通りです、新田橋の説明の意味を持たせたのではないでしょうか。

  6. かめ より:

    面白い記事ありがとうございます。地元民として嬉しい考察です。

    二つほど個人的な推測を挙げさせてください。

    1.橋をかけた人。地元民に使われていた、記録に残らないような小さな橋等で、ナカノという人が中心になって橋をかけたためナカノ橋と愛称がつけられていた。

    2.地理的要因。新百合ヶ丘の手前まで含めると多少ずれますが、中の橋バス停は稲城市の丁度中心付近にあたります。そのため、名もないような橋が稲城市の中心という意味を込めて、「中の橋」と呼んでいた。

    資料も何も提供できず申し訳ないのですが、今後も更新を楽しみにしております。

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      ありがとうございます。

      私も推測1は考えました。
      当時の三沢川は今ほど川幅が広くなく、竹馬で渡って遊んでいたこともあるそうで、かつ、『稲城市の地名と旧道』によると木の板を渡しただけの橋もあったそうです。
      なので、そういう橋があったのかもしれませんが、そこまで来ると、当時を知る人に聞く以外手段はないような気はするので、手詰まりです。

      「中の橋」「中橋」といった橋は日本全国に大量にあって、「○○橋と△△橋の間に架かった橋」や「村の真ん中にある」という理由でこのような名前が付いたものも多いようです。なので「村中橋」も推測2のような由来かもしれません。

      ただ、「村中橋」が「中の橋バス停」の由来であるという確実な証拠も得られず、正直なところ村中橋が本当にあったのかも怪しいなと思っていて、謎はまだまだ深いです。

  7. momura より:

    いつも楽しませていただいております。
    近所のことなので気になり、バス停近くに昔からお住まいの地主さんに聞いてみたのですが、あまり気にしておられなかったようで、残念ながらわからないということでした。
    もう記憶のある年代の方は少ないかもしれませんね。

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      わざわざありがとうございます。
      バス路線設置から半世紀以上が経過していると、当時を知る方も少なくなっていますよね。
      当時はこのような名前のバス停ができて違和感とかなかったのかなと少し気になります。

  8. yoshi3london より:

    素晴らしい!以前鶴川に住んでおり、鶴川街道はよく利用していたので、この辺のことも中の橋というバス停もわかりますが、その名の橋が無いとまでは気づきませんでした。
    話は飛ぶのですが、最後に出てきた「入谷戸」バス停。実は町田市内にはもう一つ入谷戸バス停があります。薬師台の端、スーパー三和の手前です。入谷戸という地名は、割とありそうなので、重複は不思議ではありませんが、同じバス会社で割と近い位置にあるのは不思議です。まだ調査は始めてませんが、もしお気づきかと思いコメント入れました

    • 管理人 yunomi-chawan より:

      入谷戸バス停については、どちらも「入谷戸」と呼ばれる谷戸が存在しているからです。
      この地域では谷筋が奥まった地形のことを「谷戸」と呼んでいます。

      真光寺の入谷戸は、真光寺交差点からいずみ浄苑まで伸びている谷筋のことで、金井の入谷戸は榛名坂下付近から薬師中学校付近まで伸びている谷筋のことです。古い地形図を見ると地名として記載されています。

      直線距離としては近いですが、それぞれ直通する路線は存在しないので問題なかったのではないでしょうかね。

      真光寺は、下谷戸、入谷戸、上谷戸などがあり、下谷戸は三和付近から駐在所方面に伸びていましたが、土地区画整理事業により消滅しています。ただ、バス停の名前としてはいまだに「下谷戸入口」として残っていますね。

  9. YT より:

    2021年に南山地区に引っ越してきた新参者で、こちらのサイトを楽しく見させて頂いています。

    ところで「中橋」に関する情報が得られたのでこちらに紹介します。三沢川はどうも昭和33年(1958年)9月26日の台風22号が襲来した時、百村の神王橋付近と、川上の坂浜~百村地区の二か所で氾濫したそうです。その時の詳細が『Go go百村 : もむらしょうわし』に掲載されています。(以下は自宅で閲覧するには国会図書館でのID登録が必要です)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/13132230/1/34

    そしてこの時の洪水のことでしょうが、『東京都水防計画 昭和57年度別冊』の29コマ目によると
    https://dl.ndl.go.jp/pid/9584510/1/29
    三沢川左岸:稲城市百村(神王橋~新田橋上)洪水注意度A 500メートル 理由:河積不足
    三沢川右岸:稲城市百村(神王橋~新田橋上)洪水注意度A 500メートル 理由:河積不足
    三沢川左岸:稲城市百村(東橋下~中橋)洪水注意度B 850メートル 理由:河積不足
    三沢川右岸:稲城市百村(東橋下~中橋)洪水注意度B 850メートル 理由:河積不足

    なお注意度の基準A、Bは以下の通りです。
    A:1時間に30ミリ程度の降雨により氾濫する恐れがある箇所)
    B:1時間30ミリ程度の降では氾濫しないが、これを超えた降雨の時、他の区域に比し、段目が小さい等により、最初に氾濫する恐れがある箇所

    さて、上で東橋と中橋が百村と紹介されてしまっていますが、少なくとも東橋(近くにワークマン稲城店があるところ)は大字坂浜です。そうなってくると中橋の方も東橋の上流にある中橋(なかばし)で、「百村」というのは完全に「坂浜」の間違いの可能性が高いのでは?と指摘されるかも知れません。

    ところが下の「季刊河川レビュー 12(2)(48)」の53コマ目によると(こちらも閲覧にログインが必要です)、「昭和59年度実施予定箇所」として斜線が入っているのは上流の「中橋」~「東橋」の間ではなく、「東橋」の下流側と「新田橋」の間です。つまり氾濫想定箇所とされている「東橋下~中橋」というのは、大字坂浜にある東橋の下流側から、百村にある「中橋」までを指しており、この850メートルの区間は坂浜と百村の両大字地区を含むと推察されます。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/3240191/1/53

    以上から明治初期に字前田にあったとされる『地誌編輯取調簿』掲載の「村中橋」=『東京都水防計画 昭和57年度別冊』掲載の「中橋」とみなしてよいのではないでしょうか?

    あと、『地誌編輯取調簿』に掲載されている「新田橋」がどこなのか?「新王橋」がなぜ掲載されていないのか?と悩んでいるようですが、少なくとも『稲城市の古文書 1 (江戸時代の村・稲城) (稲城市文化財調査報告書 ; 第7集) 』掲載の「百村絵図」では、現在の神王橋、新田橋、そして問題となっている村中橋には既に橋が架かっています。神王橋の方は、東長沼村との境に近いので、百村内の橋名としてはうっかり欠落してしまったのではないか?と考えます。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/9642755/1/14

    なお『地誌編輯取調簿』では坂浜村内の三沢川に架かる橋として、堂ノ前橋(字堂ノ前:
    字名からすると現在の於部屋橋?)、車橋(字堂ノ下、青面金剛庚申堂の下の現在の中橋?)、念仏橋(字台田前、字台田は北側の山の上の字名だが、現在の東橋?)の3つが登録されていますが、於部屋橋、中橋、東橋の名称は見当たりません。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/13216472/1/219

    • 管理人 管理人 より:

      いつもご愛読ありがとうございます。
      提示していただいたURLと論拠、大変興味深く拝見しました。

      『東京都水防計画』の「東橋下~中橋」が百村になっている件ですが、この後の年に刊行されている同計画でも延長が少し変わりながらも、続けて掲載され続けています。
      昭和60年度になると、百村が坂浜に修正されています。また、巻末の地図(若干信用できない部分もあるが)などからも、昭和57年度に百村と記載されているのは、坂浜の誤記載の可能性が高いのではないかと思います。
      また、こういう河川系の計画では、下流から上流に向かって記載するのが一般的です。この水防計画がその例によっているかは不明ですが、そうであるとすれば、中橋は東橋の上流にあると考えられ、現在の橋のとおり、東橋は坂浜ワークマン前の東橋、中橋は坂浜の東橋ということになると思います(距離も妥当)。

      次に『季刊河川レビュー 』に記載のないようですが、おそらく水防計画で「注意を要する箇所」に入っていない区間が工事箇所に入っているため、そう推測したのではないかと思います。
      1984年と1988年の航空写真を見比べると、現在の砂場の橋上流~上の車橋の間で護岸工事がされていることがわかります。これは、河川レビューの「59年度実施予定箇所」と場所も時期も整合します。
      一般に、河川改修は下流側から行います。上流側を先に整備して流れがよくなっても、下流側で詰まってしまい溢れるためです。1980年頃の三沢川は、河川レビュー記載の通り、上の車橋までが都市計画事業承認を受けていた区間で、土地区画整理事業と並行して河川改修が進められていました。河川レビューの「59年度実施予定箇所」もその区間の1つです。
      その上流側、上の車橋~きさらぎ橋までの都市計画事業認可がされたのは1985年6月5日のこと、きさらぎ橋~中橋までの認可がされたのは2012年4月5日のことで、中橋までは現在も河川断面が足りていない状態が続いています。したがって、たとえ「注意を要する箇所」であってもすぐに河川改修できるかというと、そうでもないのです。

      神王橋については、改めてよく考えてみると、明治時代の時点で、現在の神王橋の付近に、地図上に橋が書かれてはいるものの、現在の鶴川街道にあたる道路の橋ではないため、『地誌編輯取調簿』に書かれていないのは当然なのかなと思いました。(=当時神王橋は存在しない)

      • YT より:

        >昭和60年度になると、百村が坂浜に修正されています。
        すみません。翌日になって後からこの事実に気付きました。

        ところで榎本家が所蔵している百村絵図ですが、『稲城市の古文書 1 (江戸時代の村・稲城)』の方には詳しい解説が載っていなかったのですが、稲城市のホームページに年代に関する解説がありました。
        https://www.city.inagi.tokyo.jp/kanko/rekishi/1011408/1003752/1003754/1003762.html

        「百村麓絵図」として『稲城市の古文書1』に収録されている絵図では、現在の新田橋、神王橋付近で鶴川街道が三沢川とクロスしているように描かれていますが、こちらは稲城市のサイトの寛文7年(1667年)の「百村絵図」と同一のようです。
        https://dl.ndl.go.jp/pid/9642755/1/14
        https://www.city.inagi.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/762/shi_14_05.jpg

        「前田」の字名が書かれている「百村絵図」は年代不詳ですが、こちらの絵図だと現在の神王橋付近に橋は書かれているのに対し、新田橋付近は橋が書かれていません。
        https://dl.ndl.go.jp/pid/9642755/1/15

        そして稲城市のサイトで弘化3年(1846年)2月とされている「百村絵図」はかなり大雑把で、謎の橋が2箇所書かれています。東側は神王橋で、もう西側がスナッパ橋だとすると、明治時代の地図に近づきます。道は赤く書いていますが、スナッパ橋付近~神王橋付近で三沢川の南側を通る道が鶴川街道筋で太く書かれているようにみえます。一方北側にもうっすらと後の赤坂と思われる道筋が書かれています。
        https://www.city.inagi.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/762/shi_14_01.jpg

        『稲城市の地名と旧道』によると、鶴川街道は元々三沢川の北側の「赤坂」と呼ばれる悪路を通っていたので、明治期に新道開墾の嘆願書が出され、昭和初期に川の南側に鶴川街道が移り、その際に「新田橋」が作られ、「神王橋」が改築されて鶴川街道が通る橋になったとされています。しかしながら、榎本家文書では、基本的には後の新田橋かスナッパ橋付近と、後の神王橋付近の間は、三沢川の南側を通る道が街道筋として描かれています。江戸時代も長いですし、三沢川は何度も氾濫しています。おそらくですが、『稲城市の地名と旧道』に描かれている通り、明治から昭和初期までは、三沢川の北側の悪路とされている赤坂を通る道が鶴川街道の本筋とされていたのでしょうが、江戸時代の初期の頃は、新田橋~神王橋付近で三沢川の南側を通る道筋、江戸時代後期になるとスナッパの橋~神王橋付近で三沢川の南側を通る道筋、そして明治維新の前後には、北側の赤坂を通る道筋が鶴川街道の本筋とされていたのではないでしょうか?

        また、改めて『地誌編輯取調簿』を見ると、村中橋は「字前田」で幅6尺、新田橋は「字新田」で幅4尺と書かれています。
        https://dl.ndl.go.jp/pid/13216472/1/171
        自分としては村中橋の所在地が字前田、かつ幅が6尺であることから、『地誌編輯取調簿』掲載の「村中橋」=「スナッパ橋」で確定だと思っています。一方新田橋があったとされる「字新田」の場所は不明です。ただ「新田」などという地名はそれこそ今なお「新田橋」(しんでんばし)が存在する大字矢野口にもあります。また6尺と4尺の道幅の違いは、明治期の地形図に掲載されるかどうかを左右したと考えられます。

        『稲城市の地名と旧道』101頁に掲載の神王橋の部分の解説を読むと

        「新道がつくられたことで、神王橋も改修され、脇にあった赤坂地蔵は、土を削り取ってポッカリとした空地ができた現代の場所へ移されることになった。神王橋は新道工事のあるまでは幅6尺(約1.8m)の木橋であった。妙見寺の参道にかかる橋でもあったので、妙見寺の山号である神王山からその呼称となったと言われている。」

        つまり神王橋にせよスナッパ橋にせよ六尺の幅のある橋です。一方『地誌編輯取調簿』掲載の新田橋は幅四尺です。六尺道と四尺道の違いは大きく、新田橋が明治の地形図の掲載から漏れたとしても不思議ではありません。現に『稲城市の地名と旧道』の方では、トバの板の橋、大塚の丸太橋の言及がありますが、これらのもっと道幅の狭い橋は地図には載っていません。

        何が言いたかったかというと、昭和初期の鶴川街道の整備で新田橋が作り変えられたのは間違いないが、それ以前から該当箇所に橋があったであろうことは江戸時代の絵図からも推察される。『地誌編輯取調簿』から「神王橋」の記述が漏れた理由ははっきりしないが、少なくとも『地誌編輯取調簿』が編纂された時期に「新田橋」が存在したことは疑いはないだろうということです。

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