稲城市の稲城駅に近い場所に「中の橋」という名前のバス停があります。
鶴川街道上にあり、稲城駅~柿生駅・駒沢学園などを結ぶ路線として、時間帯によりばらつきはあるものの、1時間に2~9本が運行されています。
週に1往復だけ神奈中バスも運行していますが、ほとんどの便は小田急バスの運行です。
バス停の名前は至って普通で、割とどこにでもある名前のバス停です。
しかし、問題が。
現在、「中の橋」という橋は存在しない。
今回は「中の橋」って何なんだ?ということで調べたのでまとめました。
例によって結論は出ておりません。(おいっ)
現状の確認
現在の三沢川の橋
この付近には三沢川という川が流れています。川崎市麻生区黒川を源流とし、稲城市を横断し、川崎市多摩区の稲田堤付近で多摩川に注ぐ河川です。
この三沢川の現在の橋の名前を見てみます。
中の橋バス停付近には、上の車橋、砂場の橋、神王橋、稲城中央橋という名前の橋があります。
そして、稲城駅方面の中の橋バス停は砂場の橋の上にあります。
旧河川の存在
付近の三沢川は河川事業・土地区画整理事業によって付け替えられています。
稲城第一土地区画整理事業が行われた箇所は旧河川は消滅している一方で、河川事業として付け替えられた神王橋から上流(西側)については旧河川が現存しています。
旧河川が残っている神王橋~上の車橋の間には現在、水はほぼ流れていないものの、いくつかの橋も残っています。
鶴川街道に架かっているのは新田橋といい、現在でも橋梁という形で残っています。
柿生駅方面の中の橋バス停は写真左側のカーブミラー奥にあります。
稲城駅方面の中の橋バス停もかつては写真正面の住宅前付近にありましたが、住宅の建て替えに伴い4年ほど前に若干移動しました。
「橋なのかよくわからないもの」と記載したのはこの写真で、橋ではないようですが、水路を跨いでいます。
名称が記載されたものは現地に存在していません。
約1.5km上流にある「中橋」
実は、中の橋バス停から上流に「中橋」という橋が2つ架かっています。
鶴川街道に架かっている「中橋」は「なかはし」と読みます。
「なかはし」の隣にある「中橋」は「なかばし」と濁って読みます。
「なかばし」の道は鶴川街道よりも古い道のようです。
「中の橋」の仮説の設定
今回は、「中の橋」って何なんだ?を解き明かすため、いくつかの仮説を設定し、それについて1つずつ検証していきました。
(仮説1)かつて「中の橋」という橋が存在した説
(仮説2)「中の橋」という地名、あるいは「なかのはし」と読む地名(中野端など)が存在した説
(仮説3)バス停が移動した説
(仮説1)は単純で、昔は「中の橋」という橋が存在し、それがバス停の名前の由来となっている説です。
(仮説2)は実は地名に「なかのはし」というものがあるという説、または、昔は「なかのはし」という地名が存在した説。なお、現在の地名は「百村」で、字以下は一号、二号という数字の字となっています。
(仮説3)は別の場所にあったバス停が何らかの理由で移設した説。具体的には、上の項に書いた「中橋」の近くにあったバス停が移動したという説です。
中の橋バス停の4つ隣にある「県境バス停」は設置当初より約900m移動したということもあり、「中の橋バス停」も移動した可能性もあります。
(仮説3)の検証 バス停はいつから存在したのか
順番が前後しますが、仮説3の検証からしていきます。
中の橋バス停がいつから存在したのかを確かめるために、稲城市立図書館に存在する最も古い住宅地図を閲覧しました。1982年の住宅地図です。
これでは三沢川は旧流路を流れているとともに、中の橋バス停は現在とほぼ同じ位置にあります。
神王橋や新田橋といった橋はある一方で、中の橋という橋は存在せず、上の項で「橋なのかよくわからないもの」とした部分にも橋は見当たりません。
これでは手掛かりがないため、東京都立図書館にあるもっと古い住宅地図を郵送複写をお願いして取り寄せました。
取り寄せたのは1973年のゼンリンの住宅地図です。都立図書館には1967年の住宅地図もありますが、ゼンリンではなくバス停の表記はありませんでした。
これも同様に神王橋や新田橋はあり、中の橋バス停は若干位置が異なるもののほぼ同じ位置であると言えるでしょう。また、中の橋という橋は見当たりません。
JR武蔵野線(武蔵野南線)はまだ建設中で、武蔵野線の高架横に細い橋が架かっていますが、おそらく工事用の橋でしょう。
正直なところ、このくらいまで調べれば結論が出るものだと思っていたのですが、結論にはまったく近づきません。
手っ取り早いのは、小田急バスに問い合わせること。下記がその回答です。そのまま載せるわけにはいかないので要約します。
- 該当路線は武蔵野乗合自動車当時から存在し、小田急バスが引き継いだ路線
- 小田急バスが引き継いだ1950年11月の国への申請書に添付された路線図に「吉祥寺駅から柿生駅を結ぶ路線」として存在
- 「中の橋バス停」がいつから存在したかは不明
- 名前の由来は不明(由来を記す義務がない)
- バス停の位置を大きく変更した記録はない
武蔵野乗合自動車というのは1932年に設立されたバス会社で、調布~吉祥寺エリアを中心に営業していました。1950年に小田急電鉄が買収し、小田急バスとして引き継がれ現在も営業しています。
この回答からは、少なくとも1950年にはバス路線があるのはわかりますが、いつからバス路線があるのかは不明です。ただし、以前、同路線の「県境バス停」の名前の由来を調べていたときに、同じように問い合わせたところ「1949年12月27日に、調布駅~柿生駅を結ぶ路線として新規設置した」という回答をいただいているので、おそらく1949年でしょう。
またバス停の位置を大きく変更した記録はないことから、(仮説3)バス停が移動した説ではないことは明らかになりました。約1.5km上流の中橋とも関係なさそうです。
(仮説2)の検証 ここの地名は何か
現在のここの地名は稲城市百村です。百村以下には「一号」「二号」といった字がありますが、普段は省略して書かないことも多いと思います。
稲城市教育委員会が発行した『稲城市の地名と旧道』にはと、
モムラ(百村)の地名は、寛永2(1625)年の百村水帳の記録の表題に百村とあり、江戸時代初期からモムラと言い、百村の佳字を当てて今に至っている。モムラはモームラの意と思われる。モは裳で、古代に女子が腰から下に着た襞の多いスカートや男子の礼服で表袴の上に来たスカート状のもののことであり、地域の表面系がモノ形をしているので地名となったものであろう。
稲城市の地名と旧道-稲城市教育委員会
と記載されています。
その1625年の『百村水帳』(地誌編輯取調簿に記載)を見ると、出口、白道、山下、木詰、コハナハ、清田、古川、屋舗前、タテ、屋舗添、モロ口、長者窪、栗坪、ヒハコロハシ、宮ノ前、六間、台山、清田谷、宮ノ台、小井土、石名坂、清水坂、篭谷、川はた、本堂、家ノ前、漆原、関免、九日伝と、29の字が記録されています。
また、1828年の『新編武蔵風土記稿』には、漆原、大塚、關下、中谷、台山、六萬臺、舘谷、舘台、西谷、木詰、小鼻と、11の字が記録されています。
補足
「地誌編輯取調簿」・・・1875年(明治8年)~1880年(明治13年)頃にかけて各県町村で編成された皇国地誌が中絶した後、これをさらに細分化した内容で臨時修史局から実施されたものと考えられる書物。取調簿には罫紙に沿革、位置、幅員、人口、橋、租税などの調査項目が印刷されている。
「新編武蔵風土記稿」・・・Wikipedia参照
そして、前出の『稲城市の地名と旧道』には、これらの地名の位置が記されています。
中の橋バス停がある付近の地名は、九日田、西谷戸、中ノ谷戸などがあります。
中ノ谷戸は少し似ていますが、これが由来かどうかは何とも言えません。
中ノ谷戸というのは、地図から類推するに、中の橋バス停から南へ100mほどの妙見寺付近のことと思われます。
多摩地域では谷筋が伸びた地形のことを「谷戸」といいます。この付近も谷筋になっていて、左右には入谷戸・西谷戸がそれぞれあり、その真ん中の谷戸だからこの名前が付いていたそうです。
西谷戸は航空写真で見てもわかるように駒沢学園の北側に伸びる谷戸で昔の姿で残っていますが、入谷戸は土地区画整理事業によって埋められ、現在は「いりやと児童公園」という名前で残る程度になっています。
百村絵図
百村の榎本家では、江戸時代の古文書81点を所蔵しているとされています(榎本家文書)。
このなかに、百村絵図が7点あるとされています。すべて探そうとしたのですが、すべては見つかりませんでした。
稲城市教育委員会が発行した『稲城市の古文書(一)-江戸時代の村・稲城』には百村絵図のうちの何点かが掲載されていて、そのうちの1つがこの写真です。
ここには、中の橋バス停の付近に「前田」という、これまで出てこなかった地名も書かれています(中央やや左側)。
ここまでをまとめると、中の橋バス停付近には「中ノ谷戸」というちょっと似た名前の地名があったようではあるものの、直接的な関係性は不明です。
よって、(仮説2)「中の橋」という地名があった説 は不明であります。(個人的には違うと思うが断定できない)
(仮説1)の検証 「中の橋」という橋は存在したのか
それでは「中の橋」という橋梁は存在したのでしょうか。
バス路線が新設されたと思われる1949年に近い、1948年の航空写真を見てます。
現在の神王橋や新田橋といった橋が見られます。
新田橋の上流の「橋?」と記載した位置には、橋があるのかどうか、写真では判別できません。
1954年の地形図を見ると、「橋?」と記載した位置にはっきりと橋が書かれています。
これが中の橋なのかはわかりません。
さらに古い1906年の地形図を見ると、現在の鶴川街道はできておらず、新田橋以外の橋があります。
現在の鶴川街道ができる前は、現在の神王橋交差点から松の台通りを通り、ワークマンの近くに出る道が街道筋でした。(小野路道や相州街道と呼ばれたそうです)
『稲城市の地名と旧道』によると、特に、現在の神王橋交差点から西側は「赤坂」と呼ばれ、往来に苦心するほどの悪路だったそうです。このことから明治期には新道開墾の請願書が出されるなどし、1928年から1930年にかけて昭和恐慌の失業対策事業として現在のルートが整備されたそうです。
橋の名は?
こうなると、この橋の名前を知るほかないでしょう。
この橋は、記事冒頭で示した「橋なのかよくわからないもの」とほぼ同じ位置に書かれています。
前出の『稲城市の地名と旧道』を読み進めると、このような記載があります。
旧街道から砂場の水田に降りて、三沢川を渡って川南の水田に行くための農道があり、この道の三沢川にかかる橋をスナッパの橋と呼んだ。幅6尺(1.8m)の木橋であった。
三沢川の砂場橋は、長さ10尺(3m)×幅6尺(1.8m)の板橋で、両端に角柱が渡してあり、川幅は8尺(2.4m)だった。
この橋は「スナッパの橋」もしくは「砂場橋」か!
『稲城市の地名と旧道』には、砂場橋の推定図が書かれています。
また、これらの記述から、この付近は「砂場」と呼ばれていたこともわかります。
さらに、現在の三沢川にかかる「砂場の橋」はどうも2世代目の橋であることもわかりました。(ただ読み方は「すなば」と銘板に書かれている)
・・・
・・・・・・
いやいやいやいや
中の橋じゃないんかい!!
ここで、前出の『地誌編輯取調簿』の橋梁の項目を見ると、明治期の百村には、新田橋、村中橋、白道橋、大塚橋、竪谷戸橋、長者橋の橋があったことが記録されています。
このうち、白道橋、大塚橋、竪谷戸橋、長者橋については「竪谷戸川架」と書かれており、三沢川ではありません。(※竪谷戸川とは、現在の南多摩尾根幹線に沿って流れていた三沢川の支流で、その川沿いの谷を「竪谷戸」といいました。多摩ニュータウン開発によって埋め立てられ、その面影はほぼなく、「竪谷戸大橋」といった名前で残っている程度です。)
では、新田橋、村中橋・・・
村中橋!?
私はこのとき「キタ!!」と思いました。
この項目のページはこの通り。したが村中橋です。
所在の項目には、「字前田三沢川架村□□属」と書かれています。(村従来属?)
字前田・・・上で「中の橋バス停付近に『前田』という地名があったようだ」と書きました。
ということは、中の橋バス停付近に「村中橋」という橋があったようです。
それで、長:五尋(?)、幅:六尺、構造:木・・・
長さ以外は前出の「スナッパの橋」と同じです。ということは、スナッパの橋は「村中橋」と呼ばれていたこともあるのか?これが「中の橋バス停」の由来か!?と思ったのですが・・・
いや待てよ?新田橋はどこなんだ?
現在の新田橋が架けられたのは鶴川街道が現在のルートになった1930年頃です。すなわち、明治時代には現在の位置に新田橋は存在していないはずです。(※ただし現在の新田橋は1973年に架け替えられている模様)
また、明治時代には存在していたはずの神王橋の記載は『地誌編輯取調簿』には見当たりません。
これでは「スナッパの橋」が「村中橋」だったとは断定できません。
地元の人に聞こう
わからないなら、地元の人に聞くのが一番です。
ということで、某日、中の橋バス停付近で外にいる高齢者の方数名に突撃で聞いてきました。滅茶苦茶怪しまれましたし、さすがにインターホン押して聞くのはできませんでした。
結論としては、「わからない」です。「昔から中の橋バス停というけど・・・」とのことでした。
結論
「中の橋」って何なんだ?の結論は・・・
村中橋という橋があったようだが、不明。
調べる中で、『写真で見る稲城今昔』に1949年1月18日に「新田橋あたり」で撮影されたと写真がありました。
現在の百村神化児童公園付近から若葉台方面に向いて撮影されたもので、中央に新田橋が見えます。
まぁ・・・こんなのどかな時代があったのですね。
この道にバスが通ることになるわけですが、「なぜ新田橋というバス停にしなかったのか」というのも引っかかるところです。
この鶴川街道には、宮の台、鶴巻(数年前に廃止)、於部屋、坂浜戸隠、日影、入谷戸、下谷戸入口・・・、柿生方面には仲谷戸、吾妻・・・といった古い地名のバス停が残されています。こういうのって、バス停の名前が変わったりすると、一瞬で忘れ去られてしまうのでしょうね。
「中の橋」が何なのかについては、引き続き情報を募集しております。
コメント
今回も大変興味深い記事で読み応えがあり、
非常に楽しかったです。
ここまで調べ上げるとは、もうプロですね!
ありがとうございます。
相変わらず結論が出ないのが残念です。
最近はネットで調べる(これを調べると言っていいのかよく疑問になるのだが)と何でも出てきますが、出てこないことを調べるのは調べ甲斐がありますね。
面白いですね.
推理が進展することを祈っております.
ありがとうございます。
これも結構長いこと調べていたのですが、手詰まりを感じたので掲載しました。
お寺の住職に聞いたらわかるかなぁ・・・と思いつつ、そこまでの行動力は起こっていません・・・
坂浜の自治会の地域割りに「宮の台、鶴巻(数年前に廃止)、於部屋」って有るからバス停が無くなっても、消えないだろうな。
ただ、住所表記にも現れないし、アパート住まいとかで、自治会に入らないと判らないだろうね。
そうなんですね。外部からは全くわからないのが残念ですね。
これも仮に何らかの理由で地域割りを変更したりすると、一気に忘れ去られていきそうな気がします。
いつも楽しく拝見しています。
皇国地誌の西暦が1980年になっていますよ。
ありがとうございます。
訂正しました。
村中橋が存在していたので新田橋と名付けしたのでは?
ごめんなさい、ちょっと理解できていないのですが、『地誌編輯取調簿』の記録によると、新田橋は村中橋よりも早く架設されていたことになっていて、この記録当初の新田橋がどの橋なのかわかっておりません。
貴殿のおっしゃる通りです、新田橋の説明の意味を持たせたのではないでしょうか。
面白い記事ありがとうございます。地元民として嬉しい考察です。
二つほど個人的な推測を挙げさせてください。
1.橋をかけた人。地元民に使われていた、記録に残らないような小さな橋等で、ナカノという人が中心になって橋をかけたためナカノ橋と愛称がつけられていた。
2.地理的要因。新百合ヶ丘の手前まで含めると多少ずれますが、中の橋バス停は稲城市の丁度中心付近にあたります。そのため、名もないような橋が稲城市の中心という意味を込めて、「中の橋」と呼んでいた。
資料も何も提供できず申し訳ないのですが、今後も更新を楽しみにしております。
ありがとうございます。
私も推測1は考えました。
当時の三沢川は今ほど川幅が広くなく、竹馬で渡って遊んでいたこともあるそうで、かつ、『稲城市の地名と旧道』によると木の板を渡しただけの橋もあったそうです。
なので、そういう橋があったのかもしれませんが、そこまで来ると、当時を知る人に聞く以外手段はないような気はするので、手詰まりです。
「中の橋」「中橋」といった橋は日本全国に大量にあって、「○○橋と△△橋の間に架かった橋」や「村の真ん中にある」という理由でこのような名前が付いたものも多いようです。なので「村中橋」も推測2のような由来かもしれません。
ただ、「村中橋」が「中の橋バス停」の由来であるという確実な証拠も得られず、正直なところ村中橋が本当にあったのかも怪しいなと思っていて、謎はまだまだ深いです。
いつも楽しませていただいております。
近所のことなので気になり、バス停近くに昔からお住まいの地主さんに聞いてみたのですが、あまり気にしておられなかったようで、残念ながらわからないということでした。
もう記憶のある年代の方は少ないかもしれませんね。
わざわざありがとうございます。
バス路線設置から半世紀以上が経過していると、当時を知る方も少なくなっていますよね。
当時はこのような名前のバス停ができて違和感とかなかったのかなと少し気になります。
素晴らしい!以前鶴川に住んでおり、鶴川街道はよく利用していたので、この辺のことも中の橋というバス停もわかりますが、その名の橋が無いとまでは気づきませんでした。
話は飛ぶのですが、最後に出てきた「入谷戸」バス停。実は町田市内にはもう一つ入谷戸バス停があります。薬師台の端、スーパー三和の手前です。入谷戸という地名は、割とありそうなので、重複は不思議ではありませんが、同じバス会社で割と近い位置にあるのは不思議です。まだ調査は始めてませんが、もしお気づきかと思いコメント入れました
入谷戸バス停については、どちらも「入谷戸」と呼ばれる谷戸が存在しているからです。
この地域では谷筋が奥まった地形のことを「谷戸」と呼んでいます。
真光寺の入谷戸は、真光寺交差点からいずみ浄苑まで伸びている谷筋のことで、金井の入谷戸は榛名坂下付近から薬師中学校付近まで伸びている谷筋のことです。古い地形図を見ると地名として記載されています。
直線距離としては近いですが、それぞれ直通する路線は存在しないので問題なかったのではないでしょうかね。
真光寺は、下谷戸、入谷戸、上谷戸などがあり、下谷戸は三和付近から駐在所方面に伸びていましたが、土地区画整理事業により消滅しています。ただ、バス停の名前としてはいまだに「下谷戸入口」として残っていますね。