相模原市淵野辺~上溝間の不思議な区画

相模原市の淵野辺駅北側~上溝駅付近に、約4kmに渡って細長く連続した区画が存在します。

カーソルを重ねると説明を表示します。

まるで鉄道が通る予定だったかのような区画割です。

弥栄高校入口交差点付近では、やや膨らんだ区画になっています。いかにも駅の予定地だったような区画に見えます。

これが何なのか、調べました。

現地の様子

まずは現地の様子を確認します。

淵野辺駅前の区画

淵野辺駅の南口からは、2つの道路に挟まれた幅25m程度の区画が続いています。

この区画を横断する道路は、ここから約300m先まで存在しないほど、細長い区画になっています。

このような区画は上溝駅北側迄続いています。

弥栄高校入口交差点付近の区画

冒頭の「駅のような区画」の部分。

直線的な道路が1つ目の交差点から不自然に左に膨らみ、2つ目の交差点付近で再び同方角に戻っています。

この区画は何なのか

相模原市が1971年に発行した『相模原市史 第四巻』にはこのような記述があります。

なお戦争たけなわな昭和17年、社長五島慶太は軍都建設中の相模原の将来性に着目し、小田急鶴川駅より横浜線淵野辺駅へ連絡し、さらに上溝駅にいたる約12キロの複線を新設する計画を立て、同年11月14日自身調査のため草鞋ばきで来町し協力を求めた。同計画によると、上溝駅からなお相武台下駅または小田急厚木駅に乗り入れて環状線とするつもりであった。翌18年11月には認可を得たので、第1期工事として淵野辺~上溝間5キロの軌道敷設を行うことになった。ところが戦局はいよいよ苛烈となり、資材はすべて軍需方面へ回さなければならず、いざとなれば小田急の一部を単線としてその資材をこちらへ回すことも考えられたが、東海道線爆破の際の小田急線の重要性にかんがみてもそれもできず、とうとう中止となってしまった。

※漢数字はアラビア数字に筆者が変換した

この記載は1976年に発行された『町田市史 下巻』にも、上記の相模原市史を引用する形で記載されています。

しかし、相模原市史のこの文章は出典が一切記載されておらず、謎が多い文章でもあります。

昭和18年11月に認可を得た?

相模原市史には「18年11月には認可を得た」との記述があります。認可と言ってもいろいろありますが、何の認可なのか記述がありません。

鉄道敷設免許?

第1に考えられるのは、「鉄道敷設免許」でしょうか。当時、鉄道を営業しようとする場合には免許が必要でした。そして、免許が下りた場合には官報に掲載されました。しかし、昭和18年の官報を見た限り、どこにも見当たりません。また、免許関係の文書は国立公文書館に保管されることが多いですが、こちらも見つかりません。となると、鉄道敷設免許は下りていない可能性が高いと考えられます。

軍都計画?

第2に考えられるのは、土地区画整理事業の関係です。相模原駅周辺では1940年代に大規模な土地区画整理事業が実施されました。その事業は「相模原都市建設区画整理事業」といい、1940年(昭和15年)~1950年(昭和25年)にかけて神奈川県が施行しました。陸軍施設が多く移転したことに伴うもので、その目的から「軍都計画」とも言いました。現在、橋本駅付近~淵野辺駅付近の広い範囲で整然とした街並みが整っているのは、この軍都計画の賜物でもあるというわけです。

例の細長い区画は、土地区画整理事業の範囲内のみ整備されており、その南北では整備されていません。

すなわち、例の細長い区画は、土地区画整理事業によって整備されたのは明白です。

1940年の計画図(相模原市史より)

上記の1940年(昭和15年)のものとされる「予定図」を見ると、幹線街路は大方現在の幹線道路と同じような構造ですが、区画街路については現在と異なっている場所が多くあります。例の細長い区画もこの図では見当たりません。

このことから、1950年(昭和25年)の事業終了までの間に計画変更が行われています。その変更が1943年(昭和18年)だったのでは・・・という考察です。

県立公文書館の1943年の文書

神奈川県公文書館の「昭和二十二年度 換地予定地指定変更関係 相模原」という簿冊には、1943年(昭和18年)12月22日施行の「認可設計一部変更ノ件」という原議書が綴られています。

これは1943年(昭和18年)12月3日付で申請があった設計変更について承認するもので、文書にはその申請書についても添付されています。

変更の内容は、現橋本変電所(橋本駅南口付近)から上溝駅方面に向けて設置されていた甲信線と呼ばれる高圧送電線が廃止されることに伴い、これまでその送電線に沿って幅員28m(送電線の両脇に6m)の道路を築造する計画を廃止するというものでした。

相都発第1084号
昭和18年12月3日

相模原都市建設区画整理事務所長

土木部長 殿

認可設計一部変更ノ件

当初事業認可設計中幹線第5号路線ハ日本発送電株式会社経営甲信線15万ボルト電線路ヲ保全スル為メ同社ト協議ノ上線下幅員28米ヲ危険地帯トシ紐帯緑地ヲ造成シテ之ヲ同社ニ買収セシメ両側ニ6米道路ヲ築造スル計画ノ基ニ一部工事ノ実施ト仮換地ノ指定ヲ了シ仮処今回該電線路撤去ノ向仄聞シタルニ付照会候処別紙ノ通撤去決定ノ回答有之候ニ就テハ同電線路撤去後ニ於ケル危険地帯タル紐地帯緑地ハ件宅地トシテノ利用不可能ニシテ防火線トシテ一応存知方ヲ考ヘ得ラルル処ナルモ之ヲ当区画整理事業地域並都市計画地域ノ両方面ヨリ考察スルニ区画整理地域トシテハ聊カ片寄リ過グルノ嫌アリ又都市計画地域ヨリ観スルトキハ同線南西ニ上溝、田名ノ商業地及慰楽地ヲ控ヘ防火線トシテ存置スルヲ思考シ得ラルル次第ナルモ同方面事業地区界ノ地勢的現状ハ上溝、田名方面著シク低地トナリ自然ノ防火地帯アルヲ以テ特ニ防火線トシテ存置スルノ必要ナク尚且本幹線ハ該電線路了ルガ為メニ計画セラレタル路線ニシテ換地計画ニ於テ相当無理ナル区画割トナリタルモノアリ之カ撤廃ニヨリ融和セラルル次第ナルヲ以テ別図赤線ノ通リ変更到度正式設計変更手続ハ他ノ変更部分ト一括シ後日致スコトトシ予メ右変更御承認相成度候也

※旧字は現代字に、漢数字はアラビア数字に直した

添付された図面

添付された図面には、送電線沿いに計画されていた道路計画が綺麗に廃止され、周辺になじむような区画街路に直されているのがわかります。

当然のことながら、現在の街並みには、この位置に送電線や送電線沿いの道路は存在していません。

上溝駅北側付近を拡大

この図面をよく見ると、例の細長い区画が書かれています。

1943年(昭和18年)12月の図面のため、相模原市史の記述とは時系列的には正しく成り立っています。

そして、この申請の最後には「正式変更手続きは他の変更部分と一括し後日致すこととする」と記載があります。

見つかった謎の図面

神奈川県県立公文書館でさらにこんな図面を見つけました。

相模原土地区画整理地区現形並予定図 縮尺六千分一」と書かれた図面で、地区内の道路について、青色は「既定路線」、赤色は「変更路線」を示しています。

そして、例の細長い区画の部分は、「変更路線」とされ、この時に誕生した図面となっています。

また、上の図面には、1943年(昭和18年)12月に設計変更申請がされた高圧送電線沿いの道路についても「変更路線」として記載されています。既に変更済みのようにも思われますが、1943年の申請には「式変更手続きは他の変更部分と一括し後日致すこととする」との記載があったことから、この図面は正式変更時の図面である可能性もあります。

おお!これか!・・・と思ったのですが、この図面があった文書は1943年(昭和18年)1月7日決裁・施行された「相模原都市計画事業土地区画整理事業地区内幹線街路第五号路線ノ一部街路新設直営工事ノ件」と書かれた原議書です。文書には幹線街路第5号線の工事設計書や工事図面などが付けられており、直営施行工事の執行を許すものとなっています。すなわち、原議書とは全く関係がなさそうな図面なのです。(幹線街路第5号線は高圧送電線沿いの道路)

この原議書が綴られた簿冊「相模原都市計画換地予定関係書」には、1950年(昭和25年)3月29日決裁・3月30日施行された「県施行都市計画事業相模原土地区画整理設計変更について」という原議書も綴られています。(変更認可自体は2月25日付?)

原議書

この原議書には、相模区画整理事務所長名で1950年(昭和25年)2月23日付で施行し、神奈川県が3月18日付で収受した「設計変更認可申請について」という申請書が添付されています。

申請書には変更内容が様々記載されていますが、このうち幹線街路の変更対照表を見ると、上記の図面の内容と一致しています。

すなわち、この設計変更申請の図面が、同じ簿冊の別の原議書に間違えて綴られてしまったのではないか・・・と私は疑っています。ただ、県立公文書館では図面に個別の番号を振っており、公文書館の利用者が間違えて綴じたのではなく、公文書館に来る前の段階で間違えて綴った可能性の方が高そうです。

さて、この設計変更申請書の中には、「設計変更の事由」と書かれた理由書があり、そこには以下のように記載されています。

戦時中当相模原地帯に亘り軍の諸施設が相次ぎ建設せられ急激な発展の兆候を示し近い将来に人口十数万を市街化が予想せられに依り五百三十五万坪の区域には諸施設等を考慮し永久に公衆の安寧を維持し軍協力工場用地を設定して軍施設に協力する目的を以て土地区画整理が施行せられたのであるが戦が益々激烈となるや軍施設も急激に増大し其の施設が当区画整理事業区域内に拡大せられ之が換地率等民有地に及ぼす影響大なる為一部区域を除外変更せり。
然るに事業中途にて終戦となるやたまたま自作農創設特別措置法が施行せられ当区画整理地区内大分の土地は農耕地なりし為当初設計の諸施設用地は殆んど農地の対照となりたる為当初の目的は崩壊せられたので設計を変更の上施行し本区画整理事業を完遂せんとするものである。

誤字は原文ママ 旧字は現代の漢字に直した

ここには鉄道予定地であることとか、道路の変更をしたこととかは一切記載されていません。

また、区画整理自体、1950年2月25日に換地処分されており、事業の終了のタイミングで、これまでを総括する形で一括して正式変更を掛けた可能性も否定できません。

見つからなかった「昭和18年11月に認可」の根拠

県立公文書館の区画整理関係の資料を一通りみたものの、土地区画整理事業に関連して「昭和18年11月に認可」されたとされる根拠資料は見つかりませんでした。

ただ、昭和18年12月以前に何らかの形で変更が内諾されていた可能性は高いものと思われます。

例の細長い区画は小田急の用地だったのか

ここまで、例の細長い区画が小田急の予定地だったかのように話を進めてきましたが、本当にそうだったのでしょうか。

土地区画整理事業はその名の通り「土地の区画を整理する事業」です。もともとあった土地(従前地)から少しずつ土地を提供してもらい、その土地を道路等の公共施設に充てるとともに、区画を整理します。整理後の土地は換地といいます。

県立公文書館には、換地処分後のそれぞれの筆についてまとめた調書が所蔵されていました。

ハイライト部分が例の土地の一部

例の細長い区画の筆を見たところ、土地所有者は「神奈川県」を打ち消し線で消した上で、「上溝農業協同組合」と書き直されています。

小田急じゃないのか・・・という気はしますが、小田急に売却する目的で神奈川県所有に使用としていたが、鉄道敷設計画が無くなったため農協に変更したという可能性がありそうな気はします。(確証はゼロ)

駅っぽいところの土地

ちなみに、駅っぽい土地に付随するこの区画も同様の記載でした。

駅舎用地だったんですかね。

なお、登記(閉鎖登記含む)を取ってみたものの、ここまで古く辿ることができませんでした。

相模原新都振興会

1943年(昭和18年)、土地区画整理事業を財界や地元が一致して軍都建設に協力するため「相模原新都振興会」が発足しました。振興会の発起人名簿には、陸軍大将男爵 荒木貞夫のほか、東京急行株式会社取締役 五島慶太の名前もあります。(当時の小田急は東急に合併)

相模原市史に写しとして掲載されている「相模原新都振興会事業概況報告(昭和19年3月)」には、鉄道新設等に関して数十回にわたり重要会議が開催された旨が記載されています。

事業概況報告

本会発足式以来会長閣下役員諸賢ニ於カレテハ軍部ノ要望ニ応ヘ新都建設ノ為諸般ノ計画其他ノ事業投資方面並ビニ鉄道新設等ノ件ニツキ数十回ニ亘リ重要会議ヲ開催、又常任理事ニ於テ特ニ日夜奮闘シタルモ事業ノ実行期ニ当リ決戦下□□ノ方針ハ時トシテ当会ノ方針ト相容ル能ハズ、此点甚ダ遺憾トスル所ナリ
本年度ニ於テハ更ニ会ノ組織ソノ他ニ完全ナル基礎ヲ定メ軍都建設ノ為邁進ヲ期スモノナリ
昭和19年3月30日
相模原新都振興会事務所

さらに、「相模原新都振興会経過報告概要(昭和19年3月)」には、鉄道新設に関して打合せ等が行われた記載もあります。

昭和18年5月30日
西村理事長宅ニ於テ役員懇談会開催、
軍都設計図面ノ検討、又鉄道問題、木材問題等ニ付懇談ス

7月25日
三宅総務理事・出張常務理事・岩本・佐藤(喜)・佐藤(昌)各常務理事、鶴川、淵の辺、上溝間ノ鉄道新設及原町田・淵の辺間新駅設置ニ付鉄道省ニ出張、軍部ノ為ソノ必要性ヲ説明シ、種々打合セヲ為ス

7月26日
相模原町役場ニ於テ地元有志協議会ヲ開催シ、鶴川・淵の辺・上溝間ノ鉄道新設ニ付打合セヲ為ス

該当部分のみ抜粋

相模原新都振興会の発足は1943年(昭和18年)であり、相模原市史に記載されている「昭和17年11月14日自身調査のため草鞋ばきで来町し協力を求めた」という記載は『経過報告概要』にはもちろん記載はありません。しかし、その協力を求めたことが振興会の発足に繋がっていったようにも想像できます。

なお、1943年(昭和18年)11月に認可を得たという記載はやっぱりありません。

総括

ここまでを踏まえると、相模原市史の記載を直接裏付けるような書類は見つからなかったものの、例の細長い区画は小田急線(鶴川~淵野辺~上溝間)を延伸する計画で、土地区画整理事業によって用意された区画の可能性が高いものと思われ、その土地区画整理事業に東急(小田急)の五島慶太が関わっていました。

その他の鉄道計画

相武電気鉄道

大正時代、愛川村~田名~上溝~淵野辺~鶴川~溝口を経て都心方面を目指す鉄道がありました。相武電気鉄道といい、1923年(大正12年)8月10日に鉄道敷設免許申請がなされ、実際に淵野辺~現:水郷田名付近の一部の建設工事が行われましたが、営業開始を見ないまま、1936年(昭和11年)には免許を失い、その後破産しています。(詳細は省略します)

カーソルを重ねると説明を表示します。

1947年(昭和22年)の航空写真を見ると、その建設跡が部分的にうっすらと残っています。

鉄道の敷設計画区間は似ているものの、この詳細なルートは例の細長い区画とは位置が異なります。

小田急(鶴川~城山間)鉄道敷設計画

申請取り下げ関連文書から

1957年(昭和33年)3月18日、小田急電鉄は鶴川~城山間の鉄道敷設免許申請を行います。

申請ルートは鶴川駅から矢部を経由し、上溝付近を通り、城山に至る21.4kmでした。矢部は横浜線の矢部~淵野辺駅間であったようです。

相模原付近のルート

相模原付近のルートは、例の細長い区画は通らず、矢部~淵野辺間から上溝駅南側を経由するルートとなっていました。

この鉄道計画は、当時相模原市と町田市が首都圏整備法に基づく市街地開発区域に指定されたことから歓迎され、相模原市史によると当時相模原市では小田急新路線建設促進協議会(会長=相模原市長)を立ち上げるなど大きな期待を寄せていたものの、小田急は地元への多額の負担を要請するなど厳しい条件が含まれ、歓迎ムードは一気に冷え込んだと言います。

その後、1968年(昭和43年)8月28日に、小田急はこの鉄道敷設免許の取り下げを申請しました。

蛇足

国立公文書館に、鶴川~城山間の想定ダイヤがありました。

今も続く都心直結鉄道の夢

上溝・相模原付近から都心への直結鉄道の夢は今でも続いています。

答申より抜粋

平成28年4月20日付交通政策審議会答申 「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」においては、小田急多摩線を唐木田~相模原~上溝方面へ延伸する計画について、「相模原市及び町田市と都心部とのアクセス利便性の向上を期待」と位置付けています。

沿線自治体(特に相模原市)において延伸に向けた取り組みを行っているものの、その先は見通せない状況が続いています。

上溝地区の住民らで構成していた「小田急多摩線延伸・上溝駅開設推進協議会」は、2022年5月28日、5年以上続いた活動を休止。「上溝みらい創生委員会」を発足し、活動は続けています。(タウンニュース記事

上溝に都心直通の鉄道が来るのはいつになるのでしょうか。

撮影日:2022年3月20日、8月21日、26日、27日、9月3日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。

コメント

  1. StarRise より:

    いやぁ、僕も不思議に思ってました。
    調べて発表していただき有難うございました。

  2. 山本トシ[元相模原市住民] より:

    51年前に私も此の地域の土地の件は不思議に思い、上溝出身の主人に聞いた処、小田急線が通る予定だったけど、その当時の上溝の住民が鶏が卵を産まなく成るからと言って、小田急線の設置反対したんだと教えてくれました。

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      そういう話もあるんですね。
      相武電気鉄道も用地は大変だったような話を見ましたし、この小田急も町田市側で反対があったとかいう話を見ました。

      • 匿名 より:

        上溝での反対運動は本当に有ったのかもしれませんが、
        鉄道敷設反対運動については「鉄道忌避伝説の謎」という本が面白いです。

  3. シリウス より:

    他にも調べた方の記事を見てますけど
    まず鉄道の線は直ぐに消えてますね
    で、何んだったのかと言うと
    軍都計画に関連した防風林跡地が答えですね

    古地図見ても、県道57号線は
    今と筋がズレてますし
    鉄道にしては上溝付近がおかしすぎます

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      資料が不十分だったので記載は割愛しましたが、前後関係としては、小田急誘致が失敗したので防風林にしたという流れではなかったでしょうか。
      線がすぐ消えているのも、土地区画整理事業の区域内のみ準備したからでしょう(用地買収ではなく換地)。すなわち、前後の部分は用地取得できてないものと考えています。

      県道のルートが変わっているのも、土地区画整理事業ならごくふつうのことだと思います。

  4. pesi より:

    以前上溝駅近辺に居住しておりました。
    妙に住宅が連続する区画があるとは思っていましたが、ここまで連続しているとは…

    上溝はちょうど相模原・淵野辺方面からの道路が一点に集約され圏央道やバイパスに向かう構造なのに、昔からの町並みが残るせいで道幅が非常に狭く、深夜帯を除けば常に渋滞が発生しています
    相模線の駅も単線のため本数も少なく、小田急の延伸には期待していたのですが、市長が一時的に相模原駅までとしてしまったため、上溝駅までの延伸は恐らく立ち消えになることでしょう

    昔計画されていた鉄道が開通していれば便利だったろうなあと思いを馳せるしか出来ませんね…

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      小田急多摩線の延伸は期待できそうにないですね。相模原までの延伸もこのままではなさそうな気がします。

  5. こまちゃん より:

    はじめまして。
    素晴らしい調査、ありがとうございます。

    毎日この道路を使いながら、家一軒の表と裏に道路がある、なんとも贅沢なつくりだなぁ…と、ずっと不思議に思っておりました。
    おかげでスッキリです‼️

    今となっては、淵野辺十字路や並木の駅予定地の曲線が、鉄道的なカーブにしか見えなくなり、通るたびに一人ほくそえんでおります。
    ありがとうございました。

    それで、淵野辺駅北口(淵野辺4丁目~淵野辺本町2丁目あたり)にも、少しだけ同じような不思議なつくりの道路がありますが、これも同様なのでしょうか⁉️
    わかれば教えてください。
    よろしくお願いいたします。

    (↓地図のリンクです。)
    https://maps.app.goo.gl/peXBes92KfVTpq9e6

    • 匿名 より:

      ごめんなさい💦
      淵野辺北口から続いてましたね。
      スミマセンでした。

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      この区画整理関係でいうと、相模線の上溝駅~南橋本駅間の「下の原交差点」のそばにかつて「作ノ口」という駅がかつてありまして、そばにある「松並ふれあい広場」は駅前広場計画の名残のようですので、こちらもほくそえんでみてください。

タイトルとURLをコピーしました