京王線仙川~調布駅間の旧線跡をたどる

京王線の仙川駅~調布駅間にはかつて電車が走った場所「旧線」が存在します。1913年(大正2年)4月15日の京王線の開通から、1927年(昭和2年)12月17日に現在のルートに移設されるまで使用されたらしいです。

この地図は2万5千分の1地形図「溝口」大正6年測図の一部を使用したものである。

旧線は仙川駅を出るとそのまま直進。甲州街道を越えその北側を走った後、再び甲州街道を越え、現在の京王線ルートに合流していたようです。使用された期間はわずか14年程度と短く、現在のルートになってから90年近くが経過し、あまり知られていないのではないかと思います。

いうことで、京王線旧線を辿ってみることにしました。調布駅側から仙川駅にかけて歩いたので、その順番で書いていきます。

調布駅~布田駅(停留場)

調布駅から現在の線路を新宿方面に進みます。

調布駅付近は2012年(平成24年)8月に地下化され、現在は地上で電車の姿を見ることができませんが、線路跡は多くの場所で空き地で残されています。今回探索するのは地下化した線路跡ではなく、90年前まで使われていたそれより古い線路です。

しばらく進むと、現在の調布駅と布田駅の中間付近で北側に鉄道用地の膨らみが現れます。この膨らみは地下化工事に伴ってできたものではなく、90年前までここで線路がカーブしていた名残のようです。ここでカーブした後は仙川駅付近までほぼ直線で進みます。

旧線は旧甲州街道を越えます。現在は「布田駅前」という交差点になっています。この付近に当時の痕跡は見つかりませんでした。

この旧甲州街道は当時はメインの道で現在の甲州街道はありませんでした。『調布市百年史』によると、現在の甲州街道の開通は1955年(昭和30年)3月のようで、京王線旧線が移設されてからしばらく経ってからになります。その影響なのか、街道沿いでは市街化が進み、戦中の航空写真で線路跡がわかっても、現在の航空写真では線路跡を判別するのが難しいほどまでになっています。

交差点角の奥に見えるのは「医王山 常性寺」で、この付近に当時の布田駅(布田停留場)があったようです。

布田駅(停留場)~柴崎駅(停留場)

当時の布田駅からさらに進み、現在の甲州街道を越えます。既に述べたように、当時はこの道路は開通していませんでした。

スバルの自動車販売店付近をそのまままっすぐ進み。この先で旧国領駅(停留場)があった場所へとたどり着きます。

甲州街道の北側に旧国領駅の跡があります。現在は当時の痕跡はほとんどありませんが、ここに駅があったことを示す標が建てられていました。

標には「京王線旧国領(北浦)駅跡」とあり、その両脇にも説明書きがありました。説明書きは以下の通りです

 ここは、京王線が大正二年四月十五日、笹塚・調布市間で運転を開始したとき、地元民の用地提供によって設置された停留所跡地である。

 当時の京王線は、仙川駅西方から現在の滝坂に沿って坂を下り、甲州街道の路面を通り、西つつじヶ丘三丁目西端で甲州街道の北側に入り、当地を経由、国領一丁目西で甲州街道を横切り、調布駅の東側で現線路に接続していた。

 その後、昭和二年十二月、滝坂の急坂と道路併用を改良するため、甲州街道の南側に線路が移設されたのに伴い廃止された。

 この停留所名は一時、「北浦」であったといわれている。会社は当初「国領」としたが、地元の強い要望によって字名の「北浦」と変更した模様である。その後、いつ「国領」と改めたのかは明確ではないが、大正六年の初めごろ、ここと調布との間に「布田」(常性寺前)を新設し、またいくつかの停留所名を改称したのと時を同じくして改められたと思われる。

 したがって、「北浦」は極めて短時間の停留所名であったと推測されている。

「北浦」が「国領」に改められた時期は明確ではないとされていますが、1917年(大正6年)の地形図(上に掲載)には、現在の国領駅が「北浦」、布田駅が「国領」と書かれています。当時の駅名はうまく固定されていなかったことが伺えますが、下記のサイトが参考になったので紹介させていただきます。

この地図は国土地理院の基盤地図情報「533934」平成29年4月1日更新の建物輪郭を使用し編集したものである。

このさき、西つつじヶ丘の甲州街道までほぼ直進します。ここからの区間は、昔の線路跡の土地の形がよく残っていて、航空写真で見るとこの部分だけ家の配置に違和感があります。左の図は建物の輪郭だけを抽出したもので、これでもよくわかりますね。ただし、知らずに街を歩いてもそう簡単にわかるものではなさそうです。

この国領駅跡の標の右側のアパートも、アパートの土地が線路跡に沿うような形になっています。

国領駅(停留場)~柴崎駅(停留場)

旧国領駅を出ると、現在は調布郵便局になっている裏側を通ります。写真の左側はデニスコートで、その奥に調布郵便局があります。

当時の線路はこの道路の中央あたりから左側にあったのではないかなと思います。航空写真で見ると線路の跡のようなものがわかります。

その先でも住宅地が線路の跡に沿うように建っています。左の奥の方に見えるのは現在の国領駅前のタワーマンションです。現在の国領駅は市街地再開発事業や線路の地下化でかなり発展しました。

戦時中の航空写真を見てもこの旧線の周囲には田畑が広がっているようなので、大正~昭和初期にかけてはどんな景色だったのか想像をするだけでも楽しいですね。

線路は現在の調布第七中学校の敷地にぶつかります。調布第七中学校は1976年(昭和51年)に開校した中学校です。

中学校の敷地には、昔京王線が通っていたことを示す標が建てられていました。

中学校の反対側には大き目の看板もありました。このようにして過去の地域の歴史を知らせる看板の意義は大きいと思います。ただ、「金子停留所もあったはず」という書き方を見ると信用していいものなのか・・・?

中学校の敷地を抜けると野川を渡ります。現在の野川は完全に整備されていて当時の面影を知ることはできません。

その先は現在は住宅地になった場所を通り抜けます。一部だけ家の向きが他の家と比べて斜めっているところがあり、そこが京王線が走っていた場所だとわかります。

京王線の跡はやがて佐須街道(深大寺通り)と交差します。このアパートの場所に旧柴崎駅があったようです。当時の電車は今ほど大きくなく長くもなかったようですが、どのあたりにホームがあったのかも今は見当がつきません。

現在この辺りはちょっとした商店街となっています。

柴崎駅(停留場)~金子駅(停留場)

この写真は今年オープンした商業施設「クロスガーデン調布」の屋上駐車場から調布方面に向かって撮影したものです。

手前には調布自動車学校の教習コースがあり、そこから京王線跡の幅と同じ敷地と繋がって奥に教習車両置き場があります。

その奥に向かって地平線に見える大き目の建物が密集している場所が調布駅です。ここから見ると京王線旧線の跡がなんとなくわかるような感じがしますね。ほぼ直線的に調布駅付近まで繋がっていたことがわかります。

さらに新宿方面に進むと甲州街道に合流します。ここから暫く甲州街道の上を路面電車のような形で走っていたようです(併用軌道)。

この国道併用部分および勾配を除く工事に着手した。たまたま甲州街道の拡幅工事が行われたので、これを機会に軌道を街道南側に移設して専用軌道としたのである。工事は、現在のつつじヶ丘駅付近に盛土を施し、ここに軌道を移して、仙川の西側切通りから国領までを一直線に改めた。

京王帝都電鐵三十年史

とあるように、当時からここがネックになっていたことがうかがえます。なお、東京オリンピックの際にも甲州街道は拡幅されているようです。

また、このころ京王線では玉南電鉄(府中~東八王子(現:京王八王子)間)の開通と合併、京王閣遊園地も開業するなど沿線状況も変わっていたようで、『京王電気軌道株式会社三十年史』には、

尚其の他の企畫(画)、工事としては、笹塚―代田橋間の府道の平面交叉を立體(体)交叉に改良のため、橋梁を敷設して勾配を取り除き、仙川―柴崎間壹粁八分の急勾配を六十分壹に改め、金子附近の國道併用を避けて新たに専用線路を敷設し、更に、近くは昭和拾壹(11)年九月初臺(台)―幡ヶ谷間の併用軌道を専用軌道に移設する等、乗客の利便のために巨費を投じて大々的改良工事を敢行し、又自動信號(号)機を設置し輸送の安全を圖(図)る外、車輛を増加し、サービスに遺憾なきを期した。

京王帝都電鐵三十年史

とあるように、設備増強の時期を迎えていたことがわかります。また、1931年(昭和6年)には御陵線も開通(現在は一部廃止)しました。このころには新宿~府中間で木柱を鉄柱に改めるなどしていたようです。

引用文中の急勾配はこの先登場します。(引用は一部現代漢字を追記した)

線路は甲州街道を進み、現在のつつじヶ丘駅の北側付近に旧金子駅跡がありました。

金子というのは古くからの地名のようです。京王線が現在地に移設した後もしばらく金子駅のままでした。

京王線が現在の位置に移設後、1950年代に入って車両を4両編成化することになります。その際、2面4線だった千歳烏山駅の拡張は困難であったことから金子駅を2面4線にして増強することになりました。ホームの拡張は駅を新宿方面に80m移設、ホームと駅舎は地下道で結ばれることになり、1957年(昭和32年)5月15日から新ホームで営業を開始しました。この時に既に6両編成に対応する土地を確保していたようです。また、千歳烏山折り返し電車と急行退避をこの駅で行うようになります。

これと同時に駅の名前を「金子」から現在の「つつじヶ丘」に改称されています。

当時の京王の情報誌『京帝たより』には

十五日から「つつじヶ丘」と駅名を改称するが、これは現在八高線にも金子という同名の駅があり連絡運輸上混同する恐れがあるため、さらに近く分譲する「つつじヶ丘」高級住宅地下車駅として駅名の明確を期するものである。

京帝たより

とあります。現在では地名もつつじヶ丘になり、金子はバス停名や郵便局名などに残る程度になっています。

金子駅(停留場)~仙川駅

金子駅を出てもしばらく甲州街道を走行後、甲州街道を南側にそれます。この付近は河岸段丘により急な坂道になっていて「滝坂」と呼ばれています。当時の甲州街道は旧道を通っていて自動車が走る前から難所だったようで、新道に付け替えられて勾配が緩やかになっています。

京王線もここの急勾配が大変だったことが、上記引用からもわかります。京王線があった方の坂は現在は道路になっていて、「売地の坂」と呼ばれているようです。

写真奥に見えるのはキユーピー仙川工場跡地にできた「仙川キユーポート」です。その手前で現在の道路は都道と交差していますが、京王線が走っていたころは道路の橋をくぐっていたようです。そのため頂上付近は当時より勾配が急になっています。

滝坂を上りきると現在の京王線と合流します(写真矢印より奥かもしれません)。当時はキユーピーがある場所を一部通っていました。キユーピーの工場閉鎖と建て替えに伴って現在はよくわかりませんが、工場時代の建物は線路敷地の形跡がなんとなくわかります。

現在の仙川駅です。掘割式の駅になっています。

参考資料(50音)

基盤地図情報「533934」平成29年4月1日更新
国領か 仙川か Oka Laboratory 備忘録
http://okalab.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-e8b7.html
『せんがわ21 第14号 特集・せんがわ界隈史』
 1993年(平成5年)9月 せんがわまちニティ情報センター 編
『多摩の鉄道沿線 古今御案内』
 2008年(平成20年)7月28日 今尾恵介 著
『2万5千分の1地形図「溝口」大正6年測図』
地理院地図
https://maps.gsi.go.jp
『京王帝都電鉄30年史』
 1978年(昭和53年)6月1日 京王帝都電鉄株式会社総務部 発行
『京王電氣軌道株式會社三十年史』
 1941年(昭和16年)3月20日 京王電氣軌道株式會社 発行
『京王風土記』
 1954年(昭和29年)4月1日 京王帝都電鉄株式会社 発行
『京帝たより第39 』
 1956年(昭和31年)5101日 京王帝都電鉄株式会社 発行
『京帝たより第46号』
 1957年(昭和32年)5月1日 京王帝都電鉄株式会社 発行
『調布今昔写真集』
 1974年(昭和49年)3月31日 調布市教育委員会 発行
『調布市百年史』
 1968年(昭和43年)10月1日 調布市役所 発行
『東京都調布市立滝坂小学校 創立百周年記念誌』
 1973年(昭和48年)8月4日 調布市立滝坂小学校創立百周年記念事業協賛会 発行

著作権の関係上難しい部分があるため載せていませんが、上記資料の中に当時の写真などがあります(旧布田駅、旧金子駅、滝坂周辺等)。参考にしてみてください。

撮影日:2017年6月19日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。

コメント

  1. sho より:

    調査報告ありがとうございました.
    だいぶ前の記事のようですが,いままで気が付きませんでした.
    よく通る場所なので大変興味深かったです.
    歴史は面白いですね.

  2. ぽん より:

    (引用は一部現代漢字を追記した)とありますが、「企畫(業)」の「畫」は「画」ではないでしょうか?

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