小平市の西武新宿線(花小金井駅~小平駅間)の花小金井第4号踏切付近では、西武新宿線がS字カーブを描いています。なぜS字カーブになったのだろうか・・・というのが今回のお話です。
例によって結論は出ていません。
花小金井第4号踏切の確認
位置の確認
花小金井第4号踏切の位置関係を確認しておきましょう。
花小金井第4号踏切は、西武新宿線は花小金井駅と小平駅のちょうど中間付近の青梅街道と平面交差した地点にあります。
地図上で位置関係を確認するとこんな感じ。
花小金井駅~小平駅間はほぼ直線の線路になっていますが、花小金井第4号踏切の前後のみ、地理院地図でもわかるくらいのS字カーブを描いています。電車はカーブで速度を落とさなければならず、速達化するためにはなるべく直線的であることが望ましいわけです。実際、このカーブも50km/hの速度制限が掛けられています。
なお、花小金井駅の高田馬場寄りに、田無第8号踏切があり、こちらは道路がS字カーブを描いています。
いつからS字カーブなのか
それでは、いつからS字カーブとなっているのでしょうか。
西武新宿線のうち、高田馬場駅~東村山駅間は1927年4月16日に開通しました。ただし当時の高田馬場駅は、現在の高田馬場駅とは位置が若干異なります。
参考までに当時の官報を見ると、当時から田無駅、花小金井駅、小平駅は存在し、花小金井駅~小平駅間は1.7マイルと記載されています。1.7マイルは約2.7kmで、この有効数字では、現在の駅間と変わっていません。
1927年修正の国土地理院地形図を見ても、花小金井第4号踏切の前後はS字カーブとなっているほか、田無第8号踏切付近の道路もS字カーブになっています。
なお、後述の調査により、鉄道開設時よりS字カーブである可能性は非常に高いです。
なぜS字カーブなのか
結論は、正直わかりません。「こうだからS字カーブになった」と直接的に言及した書類を見つけることができなかったからです。
ただ、
交差角を確保したかったから
で、間違いはないでしょう。
現在の道路構造令(2020年11月25日施行)には、
(鉄道等との平面交差)
第二十九条 道路が鉄道又は軌道法(大正十年法律第七十六号)による新設軌道(以下「鉄道等」という。)と同一平面で交差する場合においては、その交差する道路は次に定める構造とするものとする。
一 交差角は、四十五度以上とすること。
(後略)
と、書かれています。(ただし、基本的には平面交差はしてはならないこととなっています)
現在の道路構造令は、都道府県道についてはこれを参酌し条例で定めることになっているので、東京都の条例(都道における道路構造の技術的基準に関する条例)を見ても同様のことが書かれています。
それでは鉄道側の基準ではどうでしょうか。現在の鉄道の技術基準である鉄道に関する技術上の基準を定める省令によると、
(踏切道)
第四十条 踏切道は、踏切道を通行する人及び自動車等(以下「踏切道通行人等」という。)の安全かつ円滑な通行に配慮したものであり、かつ、第六十二条の踏切保安設備を設けたものでなければならない。
とされており、この省令の解釈基準には、
普通鉄道(新幹線を除く。)、無軌条電車及び鋼索鉄道の踏切道は、次の基準に適合する
ものであること。
(1) 略
(2) 鉄道と道路との交差角は45度以上であること。
とされています。
すなわち、現在の道路側及び鉄道側の基準はともに、踏切道における鉄道と道路の交差角は45度以上でなければならないと定めています。
では、花小金井第4号踏切の交差角はというと・・・ピッタリ45度なのです。(出典:踏切道安全通行カルテ)
同様に、踏切道安全通行カルテによると、田無第8号踏切も交差角は45度となっています。
古く(明治期等)からある鉄道は、道路と鋭角に交差している箇所もあり、最近になって交差角45度以上になるよう道路改良をする場所も全国で見られます。
では、これが正解かというと・・・上記の基準は現在の基準。
そうであれば、西武新宿線ができた当時の基準はどうだったのかを確認する必要があります。
以下は「45度以上にしたかったから」という仮定をたて、調べてみました。
昔の基準を探る
昔の基準を探るためには、道路側の基準と、鉄道側の基準の両方を探る必要があります。
道路側の基準
道路の基準としては、上記に記載の「道路構造令」というものがあります。現行の道路構造令は1970年に公布されたもので、これから数度の改正を経て現在に至っています。
道路構造令の変遷
それ以前は、1919年の旧都市計画法と旧道路法の制定に伴い制定された、1919年制定の道路構造令及び街路構造令まで遡ることができます。
当時は道路と街路で別々の構造令が存在していました。街路構造令はその第1条で、「本令二於テ街路ト稱スルハ地方長官ノ指定スル市内及市二準スヘキ地域内二於ケル道路ヲ謂フ」とあるように、都市部の一部の地域のみ適用されています。当時の花小金井第4号踏切は、街道筋であったとはいえ、街道を外れると田畑や雑木林が広がる農村であり、道路構造令が適用されていたものと思われます。
過去の道路構造令
1919年の道路構造令は、土木学会のサイトに掲載されているものによると、踏切道に関する規定は見当たりません。この道路構造令は技術基準としては不十分であり、1926年に『道路構造に関する細則』が制定されました。これには、踏切道に関する規定として、踏切前後の道路の直線長に関する規定はあるものの、交差角に関する規定は見当たりません。
※省略しますが、街路構造令にも踏切の交差角に関する規定はありません。
菊池らの研究によれば、モータリゼーションの進展等により、、1958年に道路構造令が改正されるまでの実質的な基準として、1935年に「道路構造令並同細則改正案要項」が通牒の形で発出され、使われたそうです。この「道路構造令並同細則改正案要綱」によると、
第27 道路が鉄道、新設軌道、自動車道又は之に類するものと平面交叉を為す場合に在りては其の交角は特殊の場合を除くの外45度以上と為すべし
との記載があり、1935年以降の踏切道においては、45度以上とする規定があることが確認できます。
なお、1958年の改正旧道路構造令には、
第30条 道路が鉄道又は軌道法(大正10年法律第76条)による新設軌道(以下「鉄道等」という。)と同一平面で交差する場合においては、その交差する道路は、次に定める構造とするものとする。
一 交差角は、45度以上とすること。
(後略)
とあります。なお、これ以降、現在の道路構造令に至るまで、同様の規定が存在し続けています。
西武新宿線の開通は1927年。上記の通り、踏切道の交差角の規定が現れたのは、調べられた限りだと1935年以降となり、時間的矛盾が生じてしまいます。
鉄道側の基準
鉄道と軌道
鉄道の基準を見るためには、鉄道と軌道が異なるということを頭に入れておく必要があります。鉄道はいわゆる普通の鉄道で、現行法制では「鉄道事業法」に基づいています。軌道はいわゆる路面電車に代表されるようなもので、「軌道法」に基づいています(路面電車=軌道ではありません)。とはいえ、大阪メトロ御堂筋線のように地下鉄であっても軌道法に基づいているものや、京王線の一部区間のように過去には軌道法に基づいていたものなどもあります。
鉄道の技術基準
さて、上述の通り、現在の鉄道の技術基準として、1900年に制定された「鉄道営業法」第1条の規定に基づき、「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」があります。この省令及びこの省令の解釈基準に「踏切道の交差角は45度以上とする」という規定があるというのは、既に述べた通りです。
「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」は「普通鉄道構造規則」や「新幹線鉄道構造規則」などを統合して2001年に制定されたものです。
2001年以前の技術基準は、この図の通りの流れを汲んでいます。
1900年に公布された鉄道営業法に基づき、1900年に「鉄道建設規程」というものが制定されました。その後、国鉄と民営鉄道で建設規程は異なる時期がありましたが、国鉄民営化に伴い、1987年に「普通鉄道構造規則」が定められるという流れになっています。
鉄道建設規程
1900年に制定された鉄道建設規程は、国立国会図書館デジタルアーカイブに掲載があります。(1912年の出版物のようです)
この時点での規定には、踏切の交差角に関する規定は見当たりません。
地方鉄道建設規程
西武新宿線は1927年に開通しており、「地方鉄道建設規程」に基づき建設されているとするならば、これを見てみます。(西武新宿線が何に基づいて建設されたかについてはのちほど検証します)
官報に掲載されていた1919年のものによると、
第七節
第二十一條 踏切道ト線路トノ交角ハ三十度ヨリ小ナルコトヲ得ス
交通頻繁ナル踏切道ニハ通行人ノ注意ヲ惹クヘキ警標ヲ設クルコトヲ要ス
交通頻繁ニシテ展望不良ナル踏切道ニハ門扉其ノ他相当ノ保安設備ヲ為スヘシ
とあり、踏切道の交差角は30度未満にしてはならないとするという規定があります。
公益社団法人交通協力会のサイトに掲載されている、1958年に日本国有鉄道が発行した『鉄道辞典』の下巻1075ページによるとによると、「地方鉄道建設規程」はその後1930年、1939年、1943年、1944年、1950年、1951年に改正をしている(1958年時点)とのことです。
1930年の改正ではメートル法に変更を、1939年の改正では監督官庁を鉄道大臣に変更を、1943年の改正では樺太に関する記述を追加する変更を、1944年の改正では軌間に関する変更を、1950年の改正では樺太に関する記述を削除する変更を、1951年の改正では車両に関して変更がされています。
その後の改正で踏切道の交差角を45度以上とするよう改正されていると思われますが、いつ改正が行われたのかは不明です。
軌道建設規程
軌道の技術基準としては、1923年に「軌道建設規程」が制定され、20回近い改正を経て現在も用いられています。
1923年公布当時の記述を見ると
第六節 踏切道
第十九條 軌道ト道路トノ平面交叉ノ交角ハ特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外国道、府県道及主要ナル市町村道ニ在リテハ四十五度以上其ノ他ニアリテハ三十度以上ト為スヘシ
とあります。すなわち、国道、府県道及び主要な市町村道は45度以上という規定になっています。青梅街道は府県道に該当します。
なお、現在もこの条文は現在もそのまま残っています。
西武新宿線は何に基づいて建設されたのか
では、西武新宿線は何に基づいて建設されたのでしょうか。
先述の西武新宿線運輸営業開始の告示を見ると、「地方鉄道」「鉄道省」とあり、地方鉄道法に基づく鉄道として開業していることはわかります。ただ、どのようにして計画され、建設されたか、その流れを見ていきましょう。
村山軽便鉄道
西武新宿線の歴史は、東村山駅以西(以北)と以東の2つの区間で分けることができます。
東村山駅以西(以北)は、1894年~1895年にかけて、国分寺駅~川越駅(本川越駅)間で川越鉄道として開業した路線が基になっています。一方、東村山駅以東は複雑な経緯を辿り開業しています。
1913年12月14日、地元有力者らを発起人として、箱根ケ崎村~戸塚村(現新宿区)に至る鉄道免許下付申請がなされます。鉄道の名は「村山軽便鉄道」と言いました。当時は鉄道を作るには国の免許が必要で、その申請が行われたということです。
軽便鉄道とは、軽便鉄道法(1910年)に基づく鉄道で、これまでの私設鉄道法よりも許認可を簡易にし条件も緩和することで誕生しました。その後、地方鉄道法の公布(1919年)により統合され、軽便鉄道法は廃止されています。
その後、資本金の増額や区間変更(終点を戸塚村から吉祥寺に変更)などの申請がなされ、1915年3月25日に、村山軽便鉄道(箱根ケ崎~吉祥寺間)の鉄道免許が下付されました。
この下付された免許には「命令書」が付けられています。
軽便鉄道法は8条しかないほど簡易なもので(※他の法律を準用する規定はあり)、建設に関する規定はそれぞれの鉄道の特殊性を考慮した命令書により行われたと言います。
命令書には鉄道営業や起工に関する内容が多く、技術的なことは書かれていません。(ここに「軌道建設規程に基づくこと」みたいなことが書かれていないかと思ったのですがありませんでした)
※免許下付申請や命令書についてはこちらに記載しました
村山軽便鉄道から川越鉄道・武蔵水電・西武鉄道(旧)へ
こうして免許が下付された村山軽便鉄道ですが、免許を受けた同年1915年12月28日に、権利一切を川越鉄道株式会社に譲渡する申請がなされます。
川越鉄道とは現在の西武国分寺線と新宿線の一部(国分寺~東村山~川越間)を営業していた鉄道です。もともとは甲武鉄道(現在の中央本線)の子会社として設立され、国分寺から甲武鉄道に直通もしていましたが、甲武鉄道が国有化後、都心への鉄路を探っていたそうです。また、村山軽便鉄道の免許申請の際にはその後押しもしていたとも言われています。
この鉄道敷設権の譲渡は1916年5月20日に許可されますが、その間の1916年3月1日に、当初免許状に「大正5年(1916年)3月24日までに提出しなさい」と記載された認可申請について、提出期限を延伸する願を提出し、工事はなかなか行われません。
川越鉄道に渡った村山軽便鉄道の免許は、幾度も工事着手期限の延期が行われ、1920年6月1日に武蔵水電に合併されます。
武蔵水電は埼玉県内で電力を供給する会社でもあり、川越~大宮間の軌道も運営していました。また、1921年10月1日には新宿~荻窪間で路面電車を運営する「西武軌道」も買収します(荻窪~田無間で軌道特許も所持)。その後、1922年6月1日に帝国電灯と合併し、鉄道部門と免許は切り離され、武蔵鉄道(西武鉄道に改称)に引き継がれます。なお、この当時の西武鉄道は現在の西武鉄道とは異なるため、西武鉄道(旧)とします。
西武鉄道(旧)
西武鉄道(旧)時代の1922年7月27日、旧村山軽便鉄道(村山線)のうち田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に変更する申請がなされています。この申請の前の1月18日には、西武軌道線((旧)新宿線)の荻窪~田無間の軌道特許を廃止する出願をしています。
この申請は1925年1月26日に認可され、村山線の免許は箱根ケ崎~東村山~田無~荻窪となりました。
この変更の際に1点気になるのは、村山線と新宿線を乗り入れさせる計画があったことです。ただし、免許の際には「鉄道省荻窪停車場連絡並びに会社鉄道・軌道連絡設計及び電気に関する工事方法を除き認可す」と記載され、この文言に乗り入れが含まれているのか、乗り入れる計画が認可されたのかは不明です。
そんな申請がされている最中の1924年4月12日に、田無町から分岐し高田町(目白)に至る路線が申請されます。
その同年9月5日にこれを戸塚町(高田馬場)から井荻村に至る路線に変更する追申がされます。この際、この路線が認可されれば、井荻村~荻窪間は敷設しないとも記載されていました。
そして、1925年1月29日に戸塚町~井荻間の免許が下り、その後の井荻~荻窪間の免許が取り消されたり、いくつかの変更があったりしたあと、1927年に高田馬場(仮)~東村山間が開業します。
田無~東村山間の変更
前の分で「いくつかの変更」の中には、東村山~田無間の工事方法変更がありました。
田無~荻窪間ルート変更および井荻~戸塚町間延伸線が認可された直後の1925年2月4日、西武鉄道(旧)は東村山~田無間の一部変更認可申請書を鉄道大臣に提出します。
その理由書には、「東村山小平村その他沿線地方における大規模の田園都市計画実現さられつつあり且つ小金井堤の名勝並に地方物資の集散を考慮し尚線路経由地形等を斟酌し一部変更支度候間特別の御詮議を以て至急御認可被成下度理由具申仕候也」と記載されています。
理由書に記載の「大規模ノ田園都市計画」というのは何を指しているか明確ではありませんが、当時の箱根土地(のちのコクド→プリンスホテル)が買収を始めていた小平学園の学園都市のことを指しているのかなぁと想像しています。
小金井堤というのは玉川上水の両岸に植えられた桜並木のことで、小平市内にも関わらず「花小金井駅」と名付けられた理由にも納得できます。
もっとも、これらは取ってつけた理由で、別の理由があるような気がしますが。
※画像にマウスを重ねると補足説明が出ます(スマホの場合はタップ)
添付された図面には、現在の西武新宿線よりもやや北側を走る計画だったものを、現在のルートに変更するものとなっています。(ただし田無以東は異なる)
そして、この図面の青梅街道との交差箇所は、明らかにS字カーブを描いた図面となっています。
すなわち、1925年2月4日の申請をもってこの部分のS字カーブが誕生したということになります。この申請は1925年10月9日に認可されます。
西武新宿線は何に基づいて建設されたのか
話は戻り、西武新宿線は何に基づいて建設されたのでしょうか。ここで上記の流れをおさらいします。
西武新宿線は軽便鉄道法に基づき免許を下付され、その後は地方鉄道法に基づき手続きが行われています。
(考察)なぜS字カーブなのか
さて、本題に戻ります。なぜS字カーブなのでしょうか。
「踏切を45度以上の交差角にしたかったから」という仮定のもと調べてきましたが、道路の基準も鉄道の基準も、建設当時には45度以上にしなければならないという規定はありませんでした。軌道ならば45度以上という規定はあったものの、西武新宿線は軌道ではなく鉄道として建設されています。
1点あるとするならば、軌道法にも適合するように互換性をもって建設した可能性……でしょうか。
前出年表の通り、1925年1月26日に田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に変更する認可がされ、1925年2月4日に東村山~田無間の工事方法変更(ルート変更)の変更申請がなされています。
2月4日の東村山~田無間の工事方法変更申請の文中に、1月26日の認可の事を知らないかのような記述が存在しています(上画像赤枠内)。(この間1週間ちょっとなので書類作成を考えると納得はできる。)すなわち、2月4日の申請時点では、新宿線(軌道線)に乗り入れる余地を残す必要があり、したがってより厳しい軌道建設規程に基づき踏切道を45度以上にしたのではないか・・・・・・
というのが私の考察です。(そうではなくても鋭角交差は危ないしね)
なお、ネットを見ると、「昭和病院のため」や「東小平駅の存在のため」といった説も見られました。
昭和病院は西武新宿線が開業した翌年の1928年に開院しています。建設の時期を考えるとこの説は薄いような気がしますし、なんなら昭和病院にとってはS字カーブではない方が用地的に良さそうにも見えます。
東小平駅はS字カーブ途中の北側に、1940年~1954年まで存在した駅です。東村山~田無間の変更申請の際に記述がないことや、開業時期から考えて、これもどうなんだろうなと思います。(当時は編成長が短かったとはいえ、駅にとっては直線の方がいいしね)
結び
そういう訳で結論はでなかったものの、色々知ることができました。
なお、花小金井第4号踏切を含む田無~花小金井駅付近間は、東京都が2004年に策定した「踏切対策基本方針」において、「鉄道立体化の検討対象区間」に含まれています。現在のところ事業着手に向けて具体的な動きはないものの、将来的にS字カーブが解消される日が来るのかもしれません。
こぼれ話
調べているうちに「へえ~」と興味深かったものの、本題とは異なるので本文では記載しなかったものをこちらにまとめておきます。
せっかく調べたのに本題と違うからといって放置しておいてはもったいない気がしたので・・・
軽便鉄道法
明治四十三年 法律第五十七号
軽便鉄道法
第一條 軽便鉄道ヲ敷設シ一般運輸ノ用ニ供セムトスル者ハ左ノ書類及図面ヲ提出シ主務大臣ノ免許ヲ受クヘシ
一 起業目論見書
二 線路予測図
三 敷設費用ノ概算書
四 運送営業上ノ収支概算書
第二條 主務大臣ハ公益上必要ト認ムルトキハ免許ニ条件ヲ附スルコトヲ得
第三條 免許ヲ受ケタル者ハ免許ニ指定シタル期限内ニ線路実測図、工事方法書及工費予算書ヲ提出シ主務大臣ノ認可ヲ受クヘシ但シ会社ニ在リテハ定款ヲ添付スルコトヲ要ス
第四條 線路ハ之ヲ道路上ニ敷設スルコトヲ得ス但シ必要ナル場合ニ於テ主務大臣ノ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラス
第五條 施設鉄道法第二十條、第四十一條、第四十二條、第五十三條乃至第五十五條及第八十條ノ規定ハ軽便鉄道ニ之ヲ準用ス
第六條 鉄道営業法ハ軽便鉄道ニ之ヲ準用ス
第七條 明治四十ニ年法律第二十八号ハ軽便鉄道ノ抵当ニ之ヲ準用ス
第八條 本法ニ依リ運送ノ業ヲ為ス者ニ対シテハ命令ノ定ムル所ニ依リ鉄道船舶郵便法ヲ準用ス
附則
本法ノ施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
本法施行前免許又ハ特許ヲ受ケタル鉄道及軌道ニシテ将来本法ニ依ラシムヘキモノハ主務大臣之ヲ指定ス
※出典:国立公文書館デジタルアーカイブ
村山軽便鉄道の免許下付
本文記載の通り、1915年3月25日に村山軽便鉄道の免許は下付されているわけですが、免許の申請は1913年12月14日に行われています。その時の下付申請書は以下の通りでした。(国立公文書館蔵、発起人署名部分は以下略)
要約すると、
「村山軽便鉄道を創立し、箱根ケ崎を起点とし東村山村、田無町を経て戸塚村に至る蒸気鉄道を敷設する計画を作った。最近は府下で鉄道が発達するも、青梅街道以北はいまだその恩恵を受けず遺憾である。特に東京市近接の町村の人口は激増し、その発展は驚くべきものがある。昨今の市街化の状況で都市生活の疲れは激甚しており、市民は時に俗塵を洗い清新の気力を得たいが、市内の公園や郊外は充分要求を満たしていない。蒸気鉄道を敷設しようとしている沿線地方は清鮮の風致を帯びており、近く東京市が貯水池を築造する計画がある。本鉄路を利用し帝都の人々の好適であることが免許を受けたい主眼である。また、殖産と将来の発展上もっとも鉄路を必要としている田無町は、既に出願されている西武軌道線路に当っているが、特許を受けて以来長年が経過し開通に至っておらず、軌道の開通は到底望めない。よって本鉄道を敷設し、これらとともに鉄路の利便を受ける箱根ケ崎村他12ヶ村を連絡し、本地方民の要求に応えられる計画と信じている。したがってもっぱら遊覧用に供する主とし、あわせて沿線一般の旅客及び貨物の運輸、並びに東京市経営の水道第二期拡張に要する材料運輸の便を図る目的として本鉄道の営業を希望している。特別の御詮議をもって至急免許状を下付くださるよう、関係書類を添えて申請するものです。」
といった感じでしょうか。
この申請書に添付された「起業目論見書」には、
・本社を東村山市に置く
・箱根ケ崎村を起点とし、石畑村、殿ヶ谷村、岸村、三ツ木村、中藤村、芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村、東村山村、久留米村、田無町、保谷村、石神井村、井荻村、落合村を経て戸塚村に至る間
・蒸気鉄道で軌間は3フィート5インチ(1067 mm)
などが記載されています。
東村山以東については現在の西武新宿線とほぼ同じルートですね。(公文書館の資料には地図が存在していなかったため正確な場所はよくわかりませんでした。)
その後、1914年7月13日に、関係町村長らが連名で、当時の総理大臣大隈重信あてに上申書を提出しています。
その後、1915年2月8日に、起業目論見変更申請がなされ、終点が国有鉄道吉祥寺駅となっています。
そして、1915年3月25日に村山軽便鉄道の免許が下付されることになります。本文記載の通り、軽便鉄道免許下付の際、命令書が付けられ、これに従い建設されることになります。
命令書の内容は、鉄道営業に関する内容のものが多く、技術的なことはほとんど記載がありません。
田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に変更
本文記載の通り、1922年7月27日に箱根ケ崎~東村山~田無~吉祥寺間の村山線工事施行認可線のうち、田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に変更する申請がなされます。
申請書には、1922年1月18日付で新宿線(旧西武軌道のこと)のうち荻窪~田無間の軌道敷設を廃止し、村山線の田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に免許変更を出願したところ、村山線は工事施行認可線であるからその変更の趣旨にて出願すべきご案内があったから、改めて工事方法書、設計図面等を添えて出願した、と記載があります。その通り、新宿線(旧西武軌道)は短縮する申請がなされています。
申請書には理由書が付けられています。
理由書には、軌道線の荻窪~田無間を廃止し、地方鉄道線の田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に変更することは、当会社で継承した線路の整理を敢行し、営業の基盤を確固たるものにすると記載があります。
また、1924年11月17日に追伸と記載された書類が提出されています。それには「荻窪停車場連絡設計に対しては同駅に於いて新宿線(軌道)を乗り入れし、軌道と鉄道との連結を図る計画を(中略)認可ください」と記載されています。
そして、1925年1月26日に変更は認可されますが、「鉄道省荻窪停車場連絡並びに会社鉄道・軌道連絡設計及び電気に関する工事方法を除き認可す」と記載されています。
井荻から目白方面へ
本文記載の通り、1924年4月12日、村山線の田無より豊多摩郡高田町間に地方鉄道を敷設する免許を申請します。
申請書には、省線目白停車場(現JR目白駅)に連絡し、旅客貨物運輸の業を営むと記載があります。
理由書をざっくり要約すると、1923年4月10日に早稲田新井線電気軌道敷設認可申請をした淀橋町角筈より大久保町を経て戸塚町下戸塚に至る都市計画道路に路面線を、それより落合村、野方村、杉並村を経て井荻村上井草に至り、井荻~田無間特許線に接続する専用線を敷設するとしたものは、都市計画道路上に敷設する軌道と専用線に敷設する軌道を合わせて御詮議いただくことは不便であるから、そのうち専用線上に敷設するものを分離し地方鉄道法に準拠し御詮議いただきたく、改めて申請する次第である。村山線に関しては建設準備を進め、田無~吉祥寺間を田無~荻窪間に変更し、田無~荻窪間の特許軌道線を廃止する申請をしたところ、工事施行認可変更手続きにより出願すべき内示がありこの準備中であり、認可をいただければ急速起工できるが、井荻村井草付近より当方の山手線目白駅方向に延長し、同駅に於いて連絡する線を敷設し、旅客貨物の運輸営業をしたい……のようなことが書かれています。
なお、1924年8月15日に追申がされており、この申請の理由が8ページにわたって記載されています。
要約すると、
・高田町~井荻間の鉄道敷設申請をした真意は、村山線完成後の輸送関係上、荻窪駅に連絡する価値は充分ではなく、井荻村より一直線に高田町に延長すると荻窪に連絡する必要がなくなること。
・川越線入間川駅(現狭山市駅)、南大塚駅等より搬出する東京市復興材料となる砂利をはじめ、各駅からの一般貨物は、既に中央線山手線の輸送力の関係上発展を制限され、または禁止され、繁忙期には創出不要に陥る場合が多いこと。
・荻窪駅付近において中央線上を横断し、新宿線(西武軌道線)に連絡する計画を定め許諾を得ているが、莫大な建設費を要し、さらに中野町~荻窪間は単線軌道でありこの改良も必要であること。また、新宿線は路面軌道であり、大量貨物継承輸送は到底不可能であること。
・別に新宿~国分寺間に出願している鉄道は、沿線に学校や古刹、墓地等があり、開発目覚ましいものがあり、近郊鉄道として旅客輸送頻繁になることが想像できる。さらに多摩川砂利の輸送が重なり、これと併せて新宿駅付近に砂利の荷扱いに適する広大な土地を求めることは不可能に近い。
・高田町~井荻間は、目白文化村をはじめ住宅を建設するにあたり交通機関の出現を切望されており、この路線の出現で利便になることは明白である。
と記載されています。また、
「なお本村山線は大正2年(1903年)に村山軽便鉄道会社より箱根ケ崎~早稲田間の敷設を出現したが、既に新宿~田無間に軌道敷設する西武軌道株式会社に特許があり、並行する関係から村山線としては田無以北に敷設することが妥当であるとの意見により、田無を経て吉祥寺に連絡することとし、免許されたものである。今日においては、各社弊社に統一されていること、当初の精神に基づき村山線として直路東進する必要を痛感している。」
とのようなことが記載され、当初の村山軽便鉄道時代からの念願である都心直通線を敷設したいということが、長々と記載されています。
目白ではなく高田馬場へ
1924年4月12日に田無~高田町(目白)間に申請した地方鉄道ですが、同年9月5日に「戸塚町より井荻村に至る間」に訂正する申請が追申という形でされています。(なぜか起終点も逆になっている)
変更の理由について、理由書には、山手線との連絡はもちろん市内交通機関との連絡は目白駅に比べて高田馬場駅の方が便利であること、工事施行においても容易であると信じられること、市内に乗り入れられる可能性もあることが記載されています。
また、田無町を井荻村に変更した理由は、当時出願中の田無~荻窪間の変更線の井荻村井草付近において接続連絡しようとしているからで、戸塚町~井荻間の鉄道を敷設する場合には、井荻~荻窪間の鉄道は敷設しない方針である、と記載されています。
戸塚町~井荻間の鉄道敷設は、1925年1月29日に免許が下りています。
出典
出典は極力本文中に記載しました。
文書は国立公文書館もしくは東京都公文書館に所蔵のものです。
撮影日:2022年1月15日、1月27日、8月26日ほか 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。
コメント
考察お疲れさまです。「例によって」って吹き出してしまいまして。
こういう考察はとても大切ですね
なかなか「これがこうだからそう」みたいなズバリを示す答えが見つからないんですよね・・・
いつも楽しみに拝見させてもらっています。
一点、東小平駅についての記述
「変成長」→「編成長」ではないかと思います。
また、新たな記事をとても楽しみにさせていただきます。
修正しました。
ありがとうございます。
興味深く拝見しました。よくお調べになりましたね。
ありがとうございます。