「戦時~高度成長期」頃の国道246号旧道を探索しています。歴史のある道ですが、探索するのは江戸時代などの道ではなく、あくまでも昭和期の旧道です。
今回は川崎市の馬絹~梶ヶ谷地区。
旧道を辿る前の下調べで初めて知ったのですが、この付近は戦争と関わりがあるらしく、今回の鶴間~二子玉川の散策で一番興味深い地域となりました。
新道馬絹交差点から左にそれる方向で旧道が分岐します。
wikipediaによると、このあたりの現在の国道246号は1980年7月23日に開通したようです。
新道馬絹という名前は、旧道の馬絹に対して新道(現在の国道)側にできた交差点という意味だと思いますが、新道は40年経っても新道です。
分岐後、対面通行の2車線の道路になります。
新道馬絹~馬絹までは新道の高架橋の側道的役割も果たしていますが、対面通行なのは旧道の名残の1つなのかもしれません。
さて馬絹交差点から先は陸軍基地の建設に伴い付け替えられた区間となります。
当初、上地図で赤色の線で示したルートで道がありました。しかし、1942年に陸軍歩兵第101連隊(通称 東部62部隊)が赤坂から移転し、道路を含む範囲で基地となり、道路は青色の線で示したルートに変更されました。
戦後すぐの航空写真を見ると、なにやら軍事施設のようなものが見られます。
現在は基地は何もなく、東急田園都市線沿線の開発によって住宅地になっています。少し痕跡はあるようですね。
以下のサイトが詳しいので紹介させていただきます。
余談:尻手黒川道路
ちなみに、航空写真左下に写る直線的な道路は現在の尻手黒川道路に当たります。この直線的な部分ができたのもどうも戦時中らしく、軍事目的だったようです。
航空写真を見てみると、この戦時中の道路は清水台~蔵敷交番前を抜け、稗原団地入口付近で消滅しています。
この道路がどこを目指していたのか気になるのですが、よくわかりませんでした。
登戸研究所を目指していたのか、別の施設があったのか、もっと先を目指していたのか・・・?
ちなみに現在の稗原団地入口近くには艦艇装備研究所川崎市所があります。1961年に移転してきたようですが、この存在もちょっと気になるものです。
もう少し勉強が必要です。
話を戻します。
旧道と旧旧道はまいばすけっと前で分岐します。
旧旧道
旧旧道はこのような道路になっています。
ルートの一部は現在の国道246号と被っています。
陸軍基地がおかれた後も旧旧道は残っていたようですね。その後土地区画整理事業も写真左側で行われ、道はほぼ同じ位置にあっても幅員などは変わっているのは確かでしょう。
注:国道246号が指定されたのは1955年のことであり戦時中は県道です。旧旧道が国道だったことはないものと思われます。
旧道
まいばすけっと付近で分岐した旧道は長坂という長い坂道に差し掛かります。
案内板によると、もともと長坂は旧旧道にあった坂の名前だそうですが、道路が旧道に付け替えられたあとも旧道で名前が残ったそうです。
旧道は新道開通以降に国道から格下げされ、現在は川崎市道になっていますが、「建設省」の名前が付いた街路灯がありました。もちろんいまは街路灯の管理は川崎市に移っています。
現在の交通量からしたら大げさともいえる横断歩道橋が設置されています。これも新道開通以前に国道だった名残なのではないでしょうか。
この先で旧道と旧旧道は合流します。
旧道は梶ヶ谷交差点に突入。
旧道は現在の国道246号を斜めに突っ切り、溝ノ口方面に進んでいきます。
かつての道路スペースを利用してか、梶ヶ谷交差点は少々広い交差点でした。
撮影日:2019年2月7日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。
コメント
艦艇装備研究所は旧海軍の技術研究所を引き継ぐ形で目黒区三田に本部があったようです。
川崎支所は磁気を研究する施設らしく。ネットで検索してみるといくつかヒットするのですが、宮前区北西。
マリアンナ医大病院南側の裏山の菅生が研究所の現住所としてヒットしました。
登戸研究所は浄水場を挟んだ北側だったと聞きますが、戦前から戦中いろいろな軍用施設を武蔵野線近辺に作っていたのではないかなと漠然と考えています
武蔵野線は1970年代の開業なので立地的には偶然ですが、見つけられにくい丘陵地を利用して色々と計画をしていたのかもしれないですね。
町田にも高齢の地主の方が「戦時中に秘密工場を造ろうとしたができる前に終戦を迎えた」みたいなことを仰っていました。それが何なのか、本当なのかもよくわからないのですが、そういう類いのものはもしかすると多いのかもしれません。
府中以南の稲城市から多摩市にかけての丘陵地にあった多摩弾薬庫は、その時代を知る人の有名であったらしく、戦中に存在した、南部線から多摩弾薬庫への引き込み線と、武蔵野線川崎部分を混同していた人が複数いたらしく。
大丸付近の武蔵野線はその引き込み線の一部を使用しているという風説を信じておりました。
陽光台から稲城駅に降りる道から見える武蔵野線はPCコンクリートの高架構造で70年代の開発と納得しました。
府中に住んでいた時期に尾根幹線が伸びていたんだは知っていたのですが。大丸から府中に北上するルートをもっぱら利用していたので稲城市部分は戦中に作られたという説を今まで信じておりました。
この確認の為、多摩弾薬庫 引き込み線でぐぐった所。子供の国が別の弾薬庫跡地であるという記述の方が多くヒットして。こちらに付いては全く知りませんでした。
尻手黒川道路の上りから246号線の下り線へ右折しようとした時、246号線の高架をくぐり、右折して側道に入るのかと思っていたところ、右折出来ず、驚きました。
後に、旧道経由で新道馬絹交差点から入ること知りました。
最後の写真の梶ヶ谷の交差点の246号線上りへの進入路も旧道を活用したものであることや、梶ヶ谷交差点から東名川崎インターへの最短ルートも一部旧道であること、初めて知りました。
馬絹交差点付近は慣れていたので特に違和感も感じたことがなかったですが、言われてみると合流方法がちょっと特殊ですね。
結構慣れてくると、この道って旧道っぽいなと地図を見るだけでわかるようになると思います。
かなり昔に廃止になりましたが、東急バスが鷺沼〜溝の口駅(南口ではない)をR246旧道経由で通っていました。
その時に、長坂下というバス停があったと思います。
あやふやな記憶ですが、東急が発行した本(確か8090が表紙)に246の事も記載されていたかと。
電車とバスの博物館が高津にあった頃、展示もあったような。