立川市羽衣町2丁目に戦時中にできた住宅地を調べた

表題の「立川市羽衣町2丁目」の住宅地のことです。都市計画道路はこの住宅地を突き抜ける計画で、住宅地はかなり整然としています。かなり細かな区画で、住宅も周囲と比べると小さめの家が密集しているイメージです。

長方形で直線的に区画されたような土地は「土地区画整理事業をした場合」、「耕地整理をした場合」などによく現れます。ほかにも「旧街道沿いの短冊形の区画」や「大企業の分譲地」などもあったりします。

さて、ここはどうやって生まれた区画なのだろうか・・・と気になり、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで古い航空写真を見てみました。

出所の明示:国土地理院の空中写真(C25-C2-84)1941年撮影

1941年の写真です。左側に見えるのが南武線と西国立駅です。

右側の国立方面には現在の区画にも通じる道路がうっすらと広がっているのがわかります。一方で、中央付近の現在の羽衣町2丁目付近は畑や荒れ地といった状況と判読できます。

出所の明示:国土地理院の空中写真(USA-M451-1_2)1947年撮影

一方、戦後になると一変します。

木が減り、団地のような建物が一気に広がっています。このころに今の羽衣町2丁目の道路形状がほぼ出来上がっているように見えます。

左側には緑川も完成しています。通水したのが1947年とのことなので、ちょうどこの時期です。

上2枚の写真から、住宅地は戦時中あるいは戦後の短い時間にできたとわかりました。
立川には基地や軍需企業があったことから、何らかの関係があったのではないかと推測できます。ほかにも立川周辺にはこのような街並みがあり、関係性も気になってきました。

出所の明示:国土地理院の空中写真(CKT791-C24-24)1979年撮影

さらに時間を進めると、周囲が都市化しているのはもちろんですが、建物がほとんど新しくなっていました。1947年の建物がほとんど残っていません。

建ててから30年経つと建替えもおかしくないですが、一気に無くなっているのも不思議でした。

はて・・・ネットで調べてもよくわからず、SNSで疑問を投げてみると「住宅営団ではないか、埼玉県蕨で似たようなものを見た記憶がある」と教えていただきました。

「なるほど、住宅営団か」。聞いたことはあっても気にしたことがなかった「住宅営団」。

営団」と聞くと「営団地下鉄(現:東京メトロ)」を思い浮かべる人も多いかもしれません。
住宅営団(住宅経営財団)」は関東大震災後の住宅供給を目的に設立された「同潤会」を母体として、1941年に設立された組織です。

国立国会図書館デジタルアーカイブで公開されている、『住宅営団の栞』(住宅営団編 住宅営団 昭和16年出版)には

日支事変以來茲に四年有餘、この間我國は開闢以來未曾有の戰爭を遂行しつゝ同時に外は東亞共榮圏の確立に從事し、内は變轉極りなき世界の情勢に呼應して高度国防國家の建設に主力を傾けつゝある。この戰爭と、建設と、軍備大擴張との三大事業を同時に遂行することは至大の難事業であつて、この事業が實行出來るか否かは一にかゝつて生産力の擴充が豫期の如く行はれるか否かにある。而して生産力擴充の爲には之に要する勞働力を動員し、銃後國民に生活不安なからしめる事を必要とし、これが爲には住宅供給の確保は食料の確保に次で缺くべからざる重要施設となるのである。

(略)

さればこそ住宅營團は非常時局下貴重なる物資の優先的配給を受け、資金の多額の融通を認められて、これ等勞務者その他庶民の住宅供給の事業を遂行せんとするものである。

住宅営団の栞

と、その目的が記されています。そのうえで

住宅營團の現在の計畫は五年間に三十萬戸の小住宅を建設せんとするにある。

(略)

第一年即ち本年度に於ては準備その他のため時日を要することも尠くないのであるから三萬戸を建て、來年度は六萬戸、再來年度より三年間は毎年七萬戸づゝ合計三十萬戸を新築する豫定である。

住宅営団の栞

と、5年間で30万戸の小住宅建設を予定していました。
また、

現在の所では住宅營團の建てる家は次の六種の型に分れて居る。
  |室数   |一戸の標準坪數
い型|二    |九坪
ろ型|二又は三 |十二坪
は型|三    |十五坪
に型|三又は四 |十八坪
ほ型|四    |二十一坪
へ型|四又は五 |二十四坪

住宅営団の栞

と書かれています。随分と小さな住宅です。これについても「貧民層を造ることになりはしないかと懸念を持つ人があるが、在来の労働者住宅と異なり、一定の集合住宅計画の下に道路、広場、緑地等をとり、さらに児童遊園、集会所、託児所、浴場、市場、店舗、診療所のごとき厚生施設を設け、建築面積に対する敷地も豊かにとる」としています。

住宅営団はポツダム宣言受諾後、GHQにより閉鎖機関に指定され、1946年12月に解散しています。
このことから、実際に30万戸建てたのかなど、不明な点も多いそうです。

さて、羽衣町2丁目ですが、調べていくと、上の航空写真の住宅も、住宅営団による住宅地だとわかりました。大きさや街の構造も、航空写真と『住宅営団の栞』に書かれていることがよく似ています。

立川市教育委員会1999年発行の『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達』によると、1944年1月に立川市字向郷、谷保村大字石田、大字青柳、大字谷保のそれぞれ一部が住宅営団東京支部の一人施行で「立川羽衣町土地区画整理」が認可されています。

詳しい範囲がわかりませんが、この区画整理によって住宅営団の住宅地が面的整備されたことが推測できます。
この施行範囲の地名が現在の国立市(当時の谷保村)の範囲も含まれているのは、当時は立川市でない範囲があったからで、のちに立川市に移管されました。

移管時期は、くにたち中央図書館2012年発行の『くにたちしらべNo.15』によると1949年、前記『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達』によると1948年とされています。

現在の羽衣町2丁目

たましん地域文化財団2005年発行の『多摩のあゆみNo.119』によれば、羽衣町の住宅営団の住宅地はすべて賃貸住宅戸数は72陸軍獣医資材本廠(現:東立川駐屯地他)の官舎だったそうです。(数えたら72戸よりはるかに多いのは謎)

住宅営団の解散後は、閉鎖機関としての住宅営団、その後東京都を経て個人に払い下げられたそうです。払い下げられた経緯と現在の住宅地への発展経緯も気になるのですが、調べるのはギブアップ。

なお、立川市内には高松町(現:栄町4付近)や錦町にも営団住宅があったそうです。戦後の航空写真を見ると立川周辺にこのほかにも似たような住宅があり、気になるのですがよくわからず。もと軍都として何らかの関係があったのですかね。東曙町住宅とかの小区画とそこにある古そうな住宅とかすごく気になっています。軍都、立川といえば赤線地帯も存在しました。調べたら様々なサイトが出てきます。

営団住宅はこのほか多摩地域で「東野住宅」や「山中住宅」などバス停名として痕跡が残っている場所があります。

参考
・たましん地域文化財団 (2005) 『多摩のあゆみ No.119』
・立川市教育委員会 (1996) 『立川の建物疎開の記録』
・立川市教育委員会 (1999) 『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達』
・立川市史編纂委員会 (1978) 『立川市史』立川市
・くにたち中央図書館 (2012) 『くにたちしらべNo.15
・住宅営団 (1941) 『住宅営団の栞』
・羽衣町一丁目自治会 (1977) 『創立三十周年記念誌』
・地図・空中写真閲覧サービス

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