皆さん、飛び地はお好きでしょうか。
このブログをご覧の皆様には好物であること間違いないでしょう。
小金井市には府中市の飛び地が存在します。
場所は府中市新町二丁目。市販の地図を見ても飛び地になっています。
新座市にある練馬区の飛び地と同じくらい、都内の飛び地としては有名な飛び地だと思います。今回はこれを調べてみました。
ちなみに、Googleマップは境界を建物に沿って表示したり、勝手につなげたりする仕様があるので正確ではありません。
まずは現地の様子
さて、地図にも書いてありましたが、飛び地に存在するのは「東京自治会館」です。
これは東京多摩地域・島嶼地域の全市町村による一部事務組合「東京市町村総合事務組合」が運営する施設です。東京都市長会などもここに置かれているほか、多摩・島嶼地域の自治体職員の研修施設にもなっています。
府中市の都市計画基本図などを参考に書いた周辺の境界はこんな感じ。市販の地図やWEB地図などよりも正確だと思います。
地籍測量図を見ても、飛び地の形状はこの地図と相違なさそうです。
(このほか南側道路部分に77番地2が存在)
「実は少し繋がっていた」という可能性を消すため、周辺の公図も取ってみました。
これを見る限り、飛び地であることは間違いなさそうです。
※70番台が新町二丁目、1番台が貫井南町一丁目、800番台が前原町五丁目付近です。
※地図に準ずる図面(旧土地台帳附属地図)なので、方位・長さ・面積・形状等は現況と異なり、隣接する公図ともきれいに一致しません。この図は周辺公図を可能な限り並べているものです。
飛び地の場所には東京自治会館の本館があり、その西側に府中市と小金井市にまたがるように別館が建てられています。本館も敷地すべてが飛び地の中というわけではなく、少し小金井市にはみ出すような形になっています。
本館と別館の間は小金井市。それも途中で前原町と貫井南町の境界になっています。別館の玄関は小金井市です。
道路のマンホール蓋は小金井市マークのものが設置されています。
境界鋲などは目立つものはあまりなく、境界好きには物足りなく感じる飛び地かもしれません。
これだけ見ると、東京自治会館のために飛び地にしたかのように見えますが、いつから飛び地なのでしょうか?
いつから?なぜ?
いつから飛び地?
小金井市の古い絵図を探していたところ、小金井市文化財センターにレプリカが展示してある、明治2年の『小金井村絵図』にその答えがありました。
この絵図の一番上が玉川上水、真ん中より少し下の黄色いエリアが野川になります。そしてこの絵図の左下が東京自治会館のあるあたりです。
いかがでしょうか。
「府中宿飛地」と書かれております。周りの地名や位置関係も現在のものとほとんど同じです。
これは少なくとも明治2年には飛び地だったとみて間違いないでしょう。
明治8年の貫井村の絵図もあり、これには飛び地の記載はないものの、周辺の現:貫井南町付近の土地形状が現在とほぼ同じです。
ただ、これ以前がどうだったのかについてはよくわからず。もっと古い絵図があればいいのですが、文化財センターでこれを展示しているくらいですから、これより古い絵図がほとんどないのでしょう。
なぜ飛び地?
ここまで読んでいただいた皆様、すみません。なぜ飛び地になったのかはわかりませんでした。
市史等読み漁ったのですが、これだとはっきりわかるものが見つけられませんでした。検地帳とかよく調べる必要ありそうですが、宿題とさせてください。
いくつか仮説を挙げてみたいと思います。
仮説① 泉と小川の存在?
先ほどの小金井村絵図を見ると、飛び地の南側に小川と、それが湧き出ている泉のような印が付けられています。
今では市街化が進み小川は存在せず、泉もありません。ただ、戦後すぐの航空写真を見ると小川のようなものが見えるため、確かに水は流れていたようです。
このあたりはとても平らな地形で、窪地っぽいものもほとんど感じられませんでした。
ただ、小金井市誌によるとこの辺りは「蛇窪」と呼ばれていたようです。同書には「蛇のいる窪地」と命名と書かれていますが、個人的には「蛇のように細長い窪地」という意味ではないかと想像します。
泉があったであろう場所の近くにはふじの木公園という小さな公園があり、少しジメジメしているような気もしましたが、きっと気のせいでしょう。
これを踏まえた仮説ですが、この小川や泉をめぐって争いがあったのではなかろうか・・・というものです。このあたりは川は近くになく、水の存在はとても貴重なものだったと想像つきます。
仮説② 新田開発?
江戸時代、武蔵野台地では多くの新田開発が行われます。この時、新田開発をしたところが、その村の飛び地となることが多くあったそうです。
例えば、小金井市桜町には是政稲荷神社という神社があります。この付近は当時是政の人が新田開発を行い、飛び地だった名残だったそうです。
そんなことで、新田開発の名残の飛び地が残っているという説です。
境界と領有をめぐり府中市と小金井市で争い?
東京自治会館建設地がここに決まる
さて、時は流れ昭和45年。当時立川市にあった市町村職員研修所の土地が東京都に返還されることとなり、新しい施設を建設する運びとなり、この土地に目を付けられました。
この土地の多くは東京都が北多摩南部事務所の建設用地として確保していたもので、昭和48年に都から事務組合に対し払い下げがなされています。このほか民有地の買収も行われます(一部は土地所有者不在等があって大変だったようだが)。
境界問題が表面化
そんな最中の昭和47年5月、第2回市長会議において、小金井市長が「当該地域は府中市と小金井市との境にありまして、これがちょっと問題があるわけです。この地域は非常に境が入り組んでいます。従って、今日府中さんと小金井市は、慎重に行政区域の問題を話合っている最中です。(中略)この問題は大きく、私の方では問題になる可能性を持っているものです。」との発言があり、行政境に関する問題が表面化します。
一方の府中市は、行政境の問題は存在しない、との立場で、小金井市の動きに対し沈黙を守っていたといいます。
その間、市長会や組合議会での交渉では、小金井市から「小金井市府中、府中市小金井に互いに町名変更すること」の提案(結局撤回)や、「玄関位置を小金井街道沿い(小金井市域)に変更すべき」との申入れ(既に設計済みのため不可能)などがされたようです。玄関位置に関しては、本館の玄関を設計通り府中市に、別館研修所の玄関を小金井市に変更し要望に応えたとのこと。
そうした争いのなか、開発行為は昭和49年11月7日に許可されたほか、建築確認申請も11月18日に建築確認がされ、工事が進んでいくことになります。
解決は流域下水道
争うこと4年。会館の完成が迫るの昭和51年3月、小金井市と府中市の両議長館で「確認書」が取り交わされ、その中で「野川暫定緊急分水を交換条件として、自治会館所在地を府中市とする」が含まれました。
これは、北多摩一号流域下水道幹線と呼ばれる流域下水道(要するにでっかい下水道管)に、当時未整備だった野川の水を時限暫定的に分水するというものでした。その後都を含めて協議がされ、8月には覚書が締結され、4年続いた境界問題は解決へと向かいました。
境界は何もいじることはなく、解決の糸口となった流域下水道と東京自治会館には直接的には何にも関係はありません。その間、府中市と小金井市の間で公共下水道(流域下水道とは異なる)についても争っていたようですけどね。
ただ、当初からこれを引き出すことを目的にしていたというよりか、途中から争いの出口が見えなくなっていただけのようにも感じますが、当時の空気感というのは書籍だけではよくわかりません。
東京自治会館の落成式は昭和51年5月12日のこと。結局、東京自治会館の所在地は「府中市新町2丁目77番地」となりました。境界や飛び地がここになければ、こんな争いは起きていなかったのかもしれませんね。
これについては『東京自治会館建設記録』(東京自治会館建設記録編纂会)に詳しく載っています。
参考文献
・『東京自治会館建設記録』
・『小金井市誌 V地名』
・『小金井村絵図』
・『貫井村絵図』
・『新 府中市史』
・『小金井市史』
・『朝日新聞1974年4月28日「自治会館の”戸籍”はウチ」』
・『朝日新聞1974年11月12日「東京自治会館を着工」』
・『読売新聞1975年9月11日「東京自治会館-「府中だ」「小金井だ」」』
・『産経新聞1975年9月16日「どうでる?”住所論争”の末」』
・『朝日新聞1976年4月8日「東京自治会館の所在地名争い 野川の水対策に波及」』
・『産経新聞1976年5月9日「東京自治会館は「府中市」」』
・『朝日新聞1976年5月12日「東京自治会館ともかく落成へ」』
コメント
50年前から近所に住んでいます。
ふじの木公園の淵には、小川が流れていた跡があり、一部暗渠っぽくなっているところもありますが、水が流れているところは私も見たことはありません。湧水跡は府中五中の裏にありました。恐らく60年以上前には枯れていたと思います。
府中と小金井で下水で揉めていたのは、この辺に昔から住んでいる人には有名ですね。
そんな前から枯れていたんですね。
いまでも歩行者通路が東八道路・野川方面に細々と続いていて、ここが水路であったことは想像しやすいですし、公図にも無番地の「水」が書かれていて、痕跡は意外とわかりやすかったです。
下水でもめていた件は府中市史にも書かれていましたが、コンクリ詰めたりとかわりとすごいことやっていたんですね。
いまでもはたから見ていると、府中市と小金井市は隣り合っている割には仲が良く見えないです。悪いわけでもないと思いますが。
「関東小字地図」だと是政村の飛び地になってやますね。
https://koaza.net/
小金井村と貫井村が入り組んでたり結構面白いことになってます。
秣場騒動とか江戸時代からキナ臭かったりするんですよねあの辺り。
小字地図は出典が怪しいので記載はしませんでしたが、それ以外の資料でも是政村に関係する飛び地であるような記載がされているものはありました。それも一次ソースにたどり着けなかったので掲載はしませんでした。
秣場騒動も調べていて気になってはいたんですが、どのあたりのことなんですかね。
実はピンポイントでここの話だったりしないかななんて思ったりしました。