横浜「発祥の地」巡り その1

ブログ掲載の順序がだいぶ前後していますが、12月9日に羽沢横浜国大駅に行ったあと、武蔵小杉方面には行かず西谷に戻り、その後横浜に行きました。

とはいっても、横浜に行く目的もなく、行けば何かあるだろう・・・くらいの気持ちでGoogleマップを見ながら電車に揺られていると見つけました。

ほう。発祥の地か。

「横浜」といえば「開国」といえば「文明開化」・・・。これはたくさんあるかもしれない・・・

あった。

ということで、今回は横浜にある行けそうな「発祥の地」を巡る旅。

No.1 日本ガソリンスタンド発祥の地

まずは横浜駅東口すぐの場所にあるという「日本ガソリンスタンド発祥の地」。国道1号線沿いにあるといい、いかにもって場所・・・。

ない・・・!(´・ω・`)

ネットで調べてみたら、確かにこの砂利がある場所に石碑が立っていたらしいです。この角のビルが工事中で、その関係で撤去されてしまったよう。

出だしからこの調子で大丈夫か・・・?

No.2 機械製氷発祥の地

横浜高速鉄道みなとみらい線に乗車し、終点の元町・中華街駅で下車。駅すぐの場所にあるのがここ。

機械製氷発祥の地

開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う会社がいくつも作られました。ホテルのレストランやアイスクリームサロンで氷が供されたという記録が残っています。1879(明治12)年には日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」がこの地に設立され、その後オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。

設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの翌年には再建し、1999(平成11)年12月31日まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として、再建当時の姿のままで稼働していました。

再建当時の建物を見てみたかったものです。

No.3 クリーニング業発祥の地

「機会製氷発祥の地」からすぐの港の見える丘公園の角にあるのがここ。

クリーニング業発祥の地

安政六年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、西洋洗濯業を横浜本町一丁目、現在の五丁目にて始め、ついて岡澤直次郎氏、横浜元町に清水屋を開業。慶応三年、脇澤全次郎氏これを継承し近代企業化の基礎を成した。
この間フランス人ドンバル氏斯業の技術指導および普及発展に貢献された。
これら業祖の偉業を顕彰しここにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する。
昭和四十八年十月吉日
神奈川県クリーニング環境衛生同業組合
全国クリーニング同業者有志一同

※一部句読点を追加し、現代文字に置き換えた

当時の人々の、当時あまり身近でない新しい業界に踏み出した意識ってどういったものだったのだろう。

No.4 日本洋裁業発祥顕彰碑

エスカル横浜のそばにあるのがこれ。駐輪がたくさんある奥にありました。

日本洋裁業発祥顕彰碑建立

碑文

1863年(文久3年)英国人ミセス・ヒアソンが横浜居留地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜洋裁業の始まりである。そのころから 在留西洋婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を入仕事として雇い、これにより婦人洋裁仕立職人が育った。

以来130有余年、先人達の偉業を称え、その精霊をモニュメントに表徴して永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する。

1995年(平成7年)11月24日

足袋職人を雇ったというのが当時らしいです。

No.5 西洋理髪発祥之地

山下公園内にあるのがこの碑。モアイ像のような不思議な彫刻です。

西洋理髪発祥之地
横浜市長 細郷道一

―ザンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする―

安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか、政府の「断髪令」に先駆け、明治2年(1869年)横浜に我が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「ザンギリ頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。

平成元年11月

彫刻名 「ザンギリ」
彫刻制作 木村賢太郎

寄贈 神奈川県理容環境衛生同業組合  全国理容環境衛生同業組合連合会

よく考えてみたらちょんまげって不思議な髪形ですよね。

No.6 銀行業務発祥の地

銀行業務発祥の地

英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は、創業2年目の1866年(慶応2年)、居留地62番に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。
その後、居留地2番(現山下町2番地)に移転した横浜支店は貿易金融業務の提供に留まらず、日本政府に対して銀行業や通貨制度に関する助言も行いました。
香港上海銀行は現在日本で営業を行っている最も古い銀行です。

最初の銀行は海外の銀行だったんですね。

これは有名かもしれませんが、日本で最初の銀行は現在のみずほ銀行です。

No.7 近代のパン発祥の地

近代のパン発祥の地

 1859年、欧米諸国との貿易がはじまるや、幕府は日本大通五番地の横浜港郵便局を中心とするこの地区に外国人の日用食料品街「お貸し長屋」を建てた。

 その一画で、内海兵吉は1860年、フランス人にパンの製造法を習って「パン屋」をはじめた。

 当初は「焼き饅頭」のようなものができた。だが、これが現代日本人の日常生活につづくパン食文化の始めである。パンの元祖「富田屋」として知られた。

 その後、イギリス人クラークのパンや「ヨコハマベーカリー」が登場する。ここで修業し、受けつぎ発展したのが打木彦太郎の元町「ウチキパン」で、イギリス流の山型食パンである。

 現代日本の日常生活に根づくパン食文化「パン屋」がはじまったこの地区に、横浜市中区制90周年を記念し「近代のパン発祥の地」を設置する。

2016年11月

設置者 横浜市綜合パン協同組合  全日本パン協同組合連合会

「焼き饅頭」のようなパンとは、長野のおやきみたいな感じだったんですかね。

調べたらウチキパンは現在もあるようで、元町・中華街駅の近くにあるようです。行けばよかったなぁ。

No.8 消防救急発祥之地

日本で最初に消防車・救急車が設置された場所だそうです。

現在もここには、1972年まで防火貯水槽として使用された居留地消防隊の地下貯水槽の遺構があります。

No.9 近代下水道発祥の地

日本大通り駅の地下コンコースにあって探すのに苦労しました。

貴重な土木遺構「大下水」

 大下水(おおげすい)とは、明治10年代に関内外国人居留地(現在の山下町一体)で築造されたレンガ製の下水管のことです。

 近代下水道発祥の地・横浜の歴史を物語る貴重な土木遺構といえます。

 当時は、この大下水などで居留地の下水を集めて海に放流していました。卵型を逆さまにした断面は、下水の流量が少ない時でも流速を確保して、汚濁物が管底に堆積しないよう流れていく工夫がされています。

 この写真は、平成8年12月に、ここ日本大通駅の建設現場から掘り出された大下水の一部です。現在実物は中区本牧十二天の中部水再生センターに保存しています。

 なお大下水より一回り小さいレンガ製下水管の実物は、横浜都市発展記念館/横浜ユーラシア文化館でご覧になれます。

綺麗な形、レンガで造られた下水道管です。

東京で最初の下水道「神田下水」は1884年(明治17年)に整備され始めたので、わずかな差で横浜の方が早かったようです。

まだまだ辿りましたが、長くなるのでブログ記事を分割します。

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