東府中から多摩川に延びる未成道っぽい空間は何?[机上調査編]

東府中から多摩川に延びる未成道っぽい空間」が何なのかを調べています。
現地調査編の続きで書いていますので、初めに現地調査編をご覧になる方がわかりやすいと思います。

都市計画図を見てみる

『府中都市計画概要』(平成25年3月現在の都市計画決定状況)府中市作成より

都市計画の状況を知るには都市計画図を見るのが手っ取り早いわけです。個人的には多摩地域すべてと近隣の一部の都市計画図を持っていますが、最近ではほとんどの都市計画区域内の自治体がインターネットで公開しています。

これを見ると、ほとんど答えがわかったも同然でしょう。

そう「今回調べている空間」には多摩川左岸北多摩一号流域下水道幹線が埋まっているのです。

西側を見てみると、清水が丘二丁目交差点をショートカットする形で流域下水道幹線が計画されています。

さらにその上には清水が丘緑地が重ねて計画されています。清水が丘緑地は都市計画緑地の1つで、面積0.25ha、1976年(昭和51年)に府中市によって都市計画決定されました。

東側を見てみると、こちらも同様に流域下水道幹線が計画され、下流の多摩川に接する部分には北多摩一号水再生センターが存在します。

多摩川左岸北多摩一号流域下水道

まずは流域下水道について
下水道法によると以下のいずれかに該当する下水道を流域下水道と定義されています。(法第2条第4号イ、ロ)

イ:専ら地方公共団体が管理する下水道により排除される下水を受けて、これを排除し、及び処理するために地方公共団体が管理する下水道で、二以上の市町村の区域における下水を排除するものであり、かつ、終末処理場を有するもの

ロ:公共下水道(終末処理場を有するもの又は前号ロに該当するものに限る。)により排除される雨水のみを受けて、これを河川その他の公共の水域又は海域に放流するために地方公共団体が管理する下水道で、二以上の市町村の区域における雨水を排除するものであり、かつ、当該雨水の流量を調節するための施設を有するもの

要するに、市町村単位で下水を処理するのではなく、その枠を越えて広域的に処理しようというのが流域下水道です。流域下水道以外の下水道には公共下水道、都市下水路があります。

流域下水道は都市施設であり、都市計画決定されます。

『多摩の下水道マップ』東京都下水道局流域下水道本部2016年発行

今回調べているところに埋設されている多摩川左岸北多摩一号流域下水道は東京都の流域下水道の1つで、東京都が管理しています。

現地調査編で東京都のマンホールが存在したのはこのためです。

この流域下水道は北多摩一号水再生センターを終末処理場とし、北多摩一号東幹線、北多摩一号西幹線、そこから分岐(そこに合流)して北多摩一号北幹線、恋ヶ窪幹線の下水管渠が敷設されています。

府中市、小金井市、国分寺市、立川市、小平市、東村山市のそれぞれ一部を処理区域としています。

多摩川左岸北多摩一号流域下水道の初出

多摩川左岸北多摩一号流域下水道は1966年(昭和41年)に都市計画決定されました。(建設省告示第3713号)これは東京都で一番早い流域下水道の決定でした。

当時は多摩川左岸流域第一号下水道と言ったそうです。そしてその管渠の名前は北多摩排水路Ⅰ号線です。

当時の計画決定に関する公文書(計画説明書)の中で、総説として以下のようなことが書かれています。

1.総説
 東京都の北多摩地区は武蔵野台地と呼ばれ、盆地状、丘陵上の地区を含め、降雨に対する自然排水が困難な地勢となっている。之に加えて大規模な尾住宅団地の建設、工場誘致が盛んに行われ、地表の状況を大巾に変えつつあり、このため、降雨による流出量は増大し、日常生活の汚水処理も重大な問題となり、下水道事業による浸水防止、雨水排除が強く要望され、こゝに多摩川左岸流域下水道計画の一環として、北多摩排水路Ⅰ号線を決定しようとするものである。

この昭和40年代というと、多摩川は「死の川」とも呼ばれ、洗剤の泡が舞うほど汚れていた時代です。

このほかに、同計画説明書の中では次のようなことが書かれていました。長いので畳んでおきます。

2.排水路設置の理由
 本計画地域は北多摩地区中央部の所謂ベッドタウンとして著しい発展途上にある地域を中心としているが、この地域に於ける現在の杯数位はその大半が不完全な在来水路によるか、又は地下滲透によるものであり、激増しつゝある汚水も各所に停滞し、蚊、蝿の温床となり、伝染病媒介の因を成すのみならず、一度豪雨になれば市街地の発展に伴なう流出量の増大により、衛生上、美感情からも放置を難い状況にある。之等の事情と地勢を考慮の上、広域的な排水計画を樹立するものである。

3.本計画区域の地形並びに状況
 本計画区域は、東は小金井市の西部、西は立川市、國分寺市の各一部、北は小平市、東村山市の各一部、南は多摩川に沿った府中市の東部であり、その集水面積は約3,970ヘクタールである。
 本区域の中央に國鉄中央線國分寺駅があり、北部中央に玉川上水が、西から東に横断し、北は黑目、落合、石神井川の流域である。
 玉川上水と國鉄中央線に狹まれた区域は、仙川の流域であり、中央線南部は野川、多摩川の流域で、地勢は概して平坦で所々に丘陵を含み、北部は西より東に、南部は北西より南東に向って緩やかな傾斜をなしている。

4.本集水区域及び排水路位置決定の理由
 本計画の北部に位する小平市附近は盆地状をなし、僅かの降雨でも浸水し、地表勾配による自然排水は困難である。河川流域としては、石神井川、黑目川の流域であるが、河川改修事業が何れも遅々とした進捗状況にあるので、本計画に於ては最短距離で直接、多摩川本流に排除しうる経路で幹線を構築するものである。
 水路終点は玉川上水の北約180mで、小平都市計画街路2等3類1号線に合致しており、本街路を南下し、途中玉川上水茜屋橋、國鉄中央線小金井電車区、京王電鉄多磨霊園前、西武多摩川線車返附近の横断及び、仙川、野川の上流遮集がある。
 又集水区域については本地区の場合、地形的、自然的需要を勘案し人為的に造られた鉄道、道路、水路等によりこれを決定している。

5.降雨強度公式(省略)

6.放流先及び放流先の水位(省略)

7.北多摩排水路の計画及び事業内容
 本排水路計画決定の内容は延長7,470m、集水面積3,970mであり、暗渠延長5,600mm、開渠延長は1,870mとなっている。
 この暗渠区間の内、最上流部(小平市内)より野川附近迄延長1,900mの区間は内径3.8mの2連管渠で土被が過大のためシールド工法によって施行し、之より下流に向い府中市段丘部迄延長3,700mの区間は内径6.5mの2連函渠で開削工法によって施工する。
 府中市段丘部より下流は開水路であり、多摩川吐口迄は延長1,870m、巾員28.6m(内径巾上下共18.0m、深さ5.0m)で両側鉄筋コンクリート擁壁構造となっている。
 以上が計画内容であり、その事業費は10,370,000千円である。
 又、今回事業決定の内容は上記の計画内容のうち、暗渠区間は計画の1/2断面に相当する分、即ち軍断面(2連の管渠及び函渠は夫々片側のみ)について、開渠区間は巾員28.6m(内径上巾18.0m、下巾6.0m、深さ5.0m)を事業決定し、之を第一期工事として施工するものであり、その事業費は6,990,000千円である。

これが当初決定時の図面です。現在の管渠と同じルートで決定しています。

しかし、現在と違うところが大きく2つあります。

1つ目は河岸段丘より南側が開渠であること。

2つ目は北多摩一号水再生センターに相当する終末処理場がないことです。

当初の計画は下流部が「開渠」

河岸段丘より南側が開渠であることは断面図からもわかります。この図の左下がそれです。

コンクリート擁壁を両側に、底に均しコンクリートをもって3面張りの水路を予定していたことがわかります。

念のため補足しておきますが、「開渠」とは蓋がされていない水路のことで、反対を「暗渠」といいます。

「下水を開渠で流したら不衛生じゃないか」と思いますが、『平成22年度 東京都下水道事業年報』によると、

広域幹線排水路は、各市町村の汚水処理施設から放流される処理水と区域内の雨水を集水して多摩川に流すという河川としての性格が強いものであった。

とされ、開渠で計画されていることも理解できます。また排水路という名前からも想像がつきます。

その後、暗渠に計画変更されたのは1969年(昭和44年)のことです。

排水路が当初、開渠で計画されていたことは、中央自動車道のあの部分(実地調査編参照)が橋梁で建設された理由の1つかもしれません、中央自動車道の府中市付近が完成したのは1967年のことであり、開渠の下水道の計画に合わせて橋梁にする必要があったのかもしれないと考えます。

なお、新小金井街道しみず下トンネル付近は、その道路を作る際の北多摩南部建設事務所の事業概要に「該当区間は、昭和48年1月流域下水道北多摩幹線第1号関連事業として事業認可を受け、すでに用地取得の澄んだ区間延長320mと一体として・・・(略)・・・街路事業に着手した」と記載があり、この地が流域下水道のために用地買収されたことが明らかです。

終末処理場の計画ができたのは3年後

1969年変更時の公文書より

北多摩一号水再生センターに相当する終末処理場は1969年(昭和44年)の都市計画変更により追加されています。開渠が暗渠になったのと同時です。

このときになってようやく、現在の役割を持つような流域下水道の計画になったようです。その後建設がされ、処理場の運転開始は1973年(昭和48年)のことでした。

当時の名称は「北多摩1号処理場」で、現在の「北多摩一号水再生センター」に変更されるのは2004年(平成16年)のことです。これはイメージアップの目的もあるそうで、ごみ処分場もクリーンセンターと言ったりしますね。ちなみに神奈川県では昨年、処理場から水再生センターに名称を変えました。

道路計画の用地ではないのか

流域下水道により、「今回調べている空間」ができたことがわかったものの、過去にここに道路計画が存在したかも調べておく必要があります。

府中市の都市計画道路は1943年(昭和18年)に最初の決定がされます。

その後、1962年(昭和37年)に全面的な改定があり、1943年の計画が全廃され、新しく決定します。このときの決定が現在まで続いていますが、現在までの間に路線によっては様々な変更や廃止、新規決定がなされています。

1943年の道路計画

国立公文書館 デジタルアーカイブより『東京府府中都市計画街路決定ノ件』

これが1943年決定時の図面です。少し画質が悪くてわかりにくいですが、このとき「今回調べている空間」に沿った道路計画は存在しません。

『東京都府中都市計画街路の決定及び廃止について』1962年廃止時の図面より(一部加筆)

これが1943年の計画廃止時の図面です。廃止時の図面は詳細なものがあったので載せます。北多摩一号幹線のルートを赤色で加筆しました。

このように、「今回調べている空間」に沿った道路計画は存在しないことがよくわかります。

1962年の計画決定時

『東京都府中都市計画街路の決定及び廃止について』1962年決定時の図面より(一部加筆)

これが1962年決定時の図面で、北多摩一号幹線のルートを赤色で加筆しました。このとき、しみず下トンネル付近より北側には北多摩一号幹線に沿った道路計画がありますが、「今回調べている空間」に沿った道路計画は存在しないことがわかります。

ただし、現在の都市計画道路網とは少し異なっています。

府中2・1・4号(現:府中3・4・7号府中清瀬線)[新小金井街道]の変更履歴

上図中の「2・1・4号」、すなわち現在の府中3・4・7号府中清瀬線の都市計画変更の履歴は以下の通りです。

1962年(昭和37年)7月26日 当初決定
1969年(昭和44年)5月20日 ルート一部変更
1989年(平成元年)6月16日 名称変更(府中2・1・4号→府中3・4・7号)
1991年(平成3年)10月30日 是政橋関連の変更

1969年変更時の図面より加筆

1969年の変更はこのようなルート変更を行いました。理由として、中央自動車道の開通が書かれています。

以上から、現在の府中3・4・7号府中清瀬線が「今回調べている空間」に計画されていたことはないことがわかりました。

府中2・2・9号(現:府中3・4・3号狛江国立線)の変更履歴

この都市計画道路は競艇場の北側、中央道の南側を走る道路で、都市計画の変更履歴は以下の通りです。

1962年(昭和37年)7月26日 当初決定
1964年(昭和39年)10月23日 計画延伸
1969年(昭和44年)5月20日 ルート一部変更・名称変更(府中2・2・9号→府中2・1・5号)
1989年(平成元年)6月16日 名称変更(府中2・1・5号→府中3・4・3号)

1964年の変更は、1962年当初決定時に鎌倉街道までだった計画を国立市境まで延伸しました。この理由は中央道建設のためと書かれています。

1969年の変更はこのようなルート変更を行いました。理由として、こちらも中央自動車道の開通が書かれています。

以上から、これも「今回調べている空間」に計画されていたことはないことがわかりました。

府中2・2・8号(現:府中3・4・4号調布府中線)[しみず下通り]の変更履歴

この路線は現在の計画では西武多摩川線付近で北多摩一号幹線とルートが重複する都市計画道路です。しかし、1962年当初決定時にはルートが重なっていません。都市計画の変更履歴は以下通りです。

1962年(昭和37年)7月26日 当初決定
1972年(昭和47年)11月17日 ルートの変更
1989年(平成元年)6月16日 名称変更(府中2・2・8号→府中3・4・4号)
1990年(平成2年)12月6日 軽微な変更

このうち、1972年の変更が大きな変更でした。上図はそのときの図面です。

1937年に決定されていたルートを南側に変更しています。変更した区間の東側は南白糸台小学校付近、西側は清水が丘二丁目交差点東側です。この変更の理由は

本街路は、昭和37年に計画決定されたが、多摩川流域下水道北多摩1号幹線の用地を有効利用し、さらに一団地住宅施設〔ママ〕として決定した日本住宅公団車返住宅団地の住環境の保護を図るため本案のように計画を変更する。

・・・と、されていて、ルートの一部を北多摩1号幹線の一部に沿って計画し直したことがわかりました。

そしてこの変更は、清水が丘二丁目交差点東側のいびつな道路線形幅員の違いの理由でもありました。

このほか

図中、「2・3・1号」(現在の府中3・5・14号小田分横街道線)も何度か変更していますが、これは今回調べている空間には関係していませんでした。

今は存在しない道路計画?

現在は存在しない都市計画道路が北多摩一号幹線(しみず下トンネル付近より南側の部分)に沿って計画されていたことはありませんでした。(複数の都市計画図を参照済み)

稲城大橋の道路計画?

稲城大橋の都市計画決定がされたのは1990年(平成2年)のこと。「今回調べている空間」に稲城大橋関連の道路計画が存在したことはありませんし、「空間」ができたのはもっと前のことです。

まとめ

まとめると、
今回調べている空間は北多摩一号流域下水道の幹線によってできた
・西武多摩川線付近は下水道用地の有効利用のため道路計画を変更
今回調べている空間には道路計画はない
・中央道の橋梁は下水道のため
といったところでしょう。

撮影日:2019年2月10日、6月11日、6月19日ほか 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。

コメント

  1. kn より:

    ここは以前住んでいた時暗渠が下水処理場に繋がっているんじゃ無いかなと思っていましたが。いい加減な推測通りだったみたいですね。
    元々農業用水だったのが東京近郊が宅地化。俗にいうドブ川になりってから蓋をして暗渠化したらしい緑道は実家のある世田谷の烏山川などで見かけていた為。特に調べるでもなくなんとなくそんなものかな位の推測でした。
     仕事で車を運転する様になってこういう暗渠は橋が無いと車が通れないので意識する様になったのですが豊島園周辺等では千川用水から石神井川に流れたと思しき暗渠に悩まされ思い至る様になった次第です。

    • yunomi-chawanyunomi-chawan より:

      烏山川などはもともと川として存在していたものが暗渠になっていますが、ここは下水道なので少し性格が違いますね。

      とはいっても、水と生活とは切っても切れない縁があって、下水道1つにしても当初の雨水排水を目的とした性格から、市町村単位の単独処理、より広域的に処理する流域下水道への発展など、都市化と水との関わりを見るのは面白いものがあります。

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