道路標識や区画線の様式などは、道路法第45条の2の規定に基づき、内閣府令・国土交通省令で定めることとされています。
その省令が「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」で、通称:標識令ともいわれています。
この標識令の別表には、このようによく見る道路標識や区画線が列挙されています。
命令自体は1960年に公布されたものですが、随時改正が続けられています。
案内標識もこのように規定されています。
古い命令のため既に撤去や更新されていて現存しないものもありますが、これらのほとんどが実在の道路標識をモデルにしていたようです。
このような標識や道路標示は、免許更新の際にもらう『交通の教則』にも載っていますね。
という前置きはこのくらいにしておいて・・・
導流帯もこのように規定されています。
「導流帯」は第6条に基づく区画線としての導流帯(107)と、第9条に基づく道路標示(指示表示)としての導流帯(208の2)の2つがあります。
この非常に特徴的な形の導流帯・・・どこかにモデルがあるに違いない!
という仮説をもとに探していると・・・
板橋区の仲宿交差点がかなり近い気がします
という情報をいただきました。
国道17号中山道と山手通り、都道420号が交差する仲宿交差点。
非常に大きな交差点で、上には首都高速が二重構造で、下には都営三田線があるなど交通の要衝です。
現在は交通島が設けられ、車道形状も変更され、導流帯も標識令の形状とは異なっていますが、道路の位置や大山駅方向にある横断歩道橋などはそっくりです。
少し前の写真を見て見ましょう。
1963年の仲宿交差点は、道路の形状こそは現在のものとほとんど同じです。導流帯などは見られません。
当時は中山道上に都電志村線が通っていて、道路中央寄りが白っぽいのはおそらく軌道敷でしょう。
交差点形状や車の位置を見ると、交通の流れは非常に雑多な感じがします。
次の鮮明撮影となる1971年になると・・・あの導流帯が出現!
標識令の導流帯はまさに、この仲宿交差点です。
1975年になると首都高速や都営地下鉄の建設に着手。道路の切回しとともに導流帯は消滅しています。
この後も交差点改良を加えながら現在の交差点形状になっています。
さて、標識令の導流帯が仲宿交差点であることがわかりましたが、その導流帯の規定はいつできたのでしょうか。
日本道路協会が発行する「月刊誌『道路』」の1972年2月号にこのような記載がありました。
この記事は1971年11月30日公布、12月1日施行の改正について記載したもので、改正内容が簡単に記載されています。
そこには、「導流帯(107)を新設したこと。」、次ページには「導流帯(208の2)を新設したこと。」と記載があります。
したがって、1971年12月1日施行の改正により新設されたことがわかりました。
ただ、改正標識令は12月1日に施行されているものの、4月の航空写真に写っていて若干の時間差があります。こういう改正はどこかモデル地点で試験的導入をして効果を確かめてから正式実施することがよくあるため、仲宿交差点は試行導入されたのかなぁという気はします。ただし、これについては資料が見つからなかったため推測です。標識令に図として載っているのもこの推測だと時間的整合が合います。(最近だと「進路変更禁止予告線」を試行してから本格導入に移った例などがあり)
また、上の航空写真から遅くとも1975年にはあの導流帯は消滅しており、あの導流帯が存在していたのはたった数年だったのでしょうね。
当時は道路整備や自動車普及に伴って交通事故が増えていて、「交通戦争」という言葉すら生まれるくらいで、交通事故死者数もこの時期にピークを迎えています。『月間交通』の1993年8月号に、元警察庁交通局交通規制課長の竹岡勝美氏が寄稿した記事(要ログイン)を読むと、当時の警察庁内での交通事故の増加に対する危機感と、それに対する様々な対策の中に導流帯が設けられたことがわかります。
実際に仲宿交差点に行ってみました。
2002年に「『みどりの一里塚」仲宿」として、交通島の緑化が行われ、大きなケヤキとエノキが目立つ交差点として親しまれていました。
撮影日:2023年11月19日 記載内容は執筆日または撮影時のものです。変更があった場合も追記できていない場合があります。
コメント
横浜市栄区の笠間って交差点も似てる気がします。
笠間交差点は今も昔も導流帯はなく道路形状は大きく変わっていないようですね。