立川市の暗渠「緑川」

立川市緑川について最終的なまとめとしてこの記事を書きたいと思います。

以前のブログにて、 下記のようなことを書きましたが少し書き加えておきます。川を辿ったことについては下記にて既に書いているので、一部省略しますが、写真の使い回しがあります。

緑川の歴史 掘削まで

多摩地区の地形としては、北部の埼玉県付近の狭山丘陵から、古くの多摩川で形成された武蔵野台地という平らな土地を経て、多摩川を越えると再び多摩丘陵という丘が現れます。武蔵野台地は複数の面が見られ、国分寺崖線、立川崖線、青柳崖線、拝島崖線などといった多摩川によって形成された河岸段丘を境に、武蔵野面、立川面、青柳面・・・と平らな土地が続いています。

立川市は立川面と青柳面に位置し、多くが立川面となっています。大まかに見れば平らな土地ですが、北部の方が標高が若干高くなっています。国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」によると、北部の砂川の二等三角点「砂川」によると標高105.46m、立川駅付近の街区多角点「10C23」によると標高84.916m、立川面の南端付近の街区多角点「20A40」によると標高81.559mと、北部で降った雨が立川駅周辺にたまるということが起きていたようです。大正11年に岐阜県各務ヶ原から飛行第五大隊が移転してきて、立川飛行場ができてからは、立川飛行場にも水がたまることがあったらしいです。

上の地図は戦前の立川飛行場の大雑把な範囲と国立立川病院の位置です。この病院は飛行隊が立川に移転してきた大正11年に開設。翌年の大正12年には立川陸軍病院となりますが、戦後の昭和20年12月に国立立川病院となった。その後平成7年に国立病院東京災害医療センターとして、相模原市相武台にあった国立王子病院と統合し、現在の場所に移設され、平成16年に独立行政法人国立病院機構災害医療センターと名前を変えています。

当時は国立立川病院(立川陸軍病院)付近に大きな吸水池を作って、ここに一時的に水をため、東へ流し、中央線と南武線が分かれる付近まで流して自然の力で蒸発、吸水させていたようです。この中央線と南武線が分かれる付近は「高木の池」というものがあったようです。

ただ、これだけでは役に立たず、たびたび氾濫していたようです。 立川市では大正14年に町議会で洪水対策について話し合いが行われています。

『本町所在飛行場第五聨隊及同附属飛行場ハ四周ニ下水路ノ設備アルモ末流疎通ノ途ナク為ニ豪雨等ニ際シ下水路ヨリ汚穢ナル濁水ヲ停車場組内ニ款下氾濫セセシメ床下浸水数百戸ニ及ヒ衛生上障害ハ勿論各自ニ蒙ラシムル損失モ尠シトセス依テ取リ敢ヘス組代表者直接本隊ニ交渉セシニ其設備ノ必要ヲ認ムルモ政府カ事業緊縮ノ折柄遂行覚束ナク町民ヨリモ相互声援セラレタシトノ回答アリ就イテハ其成否ノ遅速ハ町民ニ至大ノ影響ヲ及ホス次第ニ付町会ノ決議ヲ以テ其目的ノ貫徹ヲ期セラレタシ』大正14年9月5日

ただし、これ以降もしばらく工事は行われなかったようです。

文献によると、昭和19年(18年?)にようやく工事が行われるようになったようでした。しかし、掘削についての文献はほとんど残っていないらしい。

工事は手作業で行われていたようです。工事が完成しないまま、終戦を迎え、進駐軍の命令によって軍都整備事業は一時中止となります。ただし、関係者が飛行場の排水路工事であることを説明し都市計画事業として工事を続行できたようです。すると米軍が重機を提供してくれ資材も提供されたらしいです。

立川市議会史によると、昭和22年4月30日に緑川が通水。当時は素掘りの川で、護岸工事もなかったようです。当時は「立川排水路」という名前でした。

昭和24年に都費補助河川編入に申請した際、東京都建設局河川課から排水路の命名について紹介がありました。

『排水路復旧費については先に知事宛補助金交付申請中の処、河川として命名するよう建設局河川課坂本主事より通知がありましたので、左案の内より御決定を得度』

『案 中川 緑川 立谷川』

中川はよくわかりませんが、緑川は立川飛行場付近が緑町と呼ばれていたこと、立谷川は立川を源流とし、今の国立市、当時の谷保村を終端とすることによると思われます。

その後、東京都広報によると『東京都告示第七百四十三号 次の架線を土木費支弁規程第二条の規定により、都費を以つて補助すべき河川に、指定する。 昭和24年4月8日 東京都知事 安井誠一郎 記 一、緑川』
ここでようやく緑川と正式に決まりました。

昭和38年12月20日 日本自動車学校10年のあゆみ発表から50年が過ぎ、著作権が切れている。

『羽衣町一丁目自治会 創立三十周年記念誌』によると、昭和25年に「緑川が火事」とあります。これは立川飛行場の燃料が流れたことによって、川が燃えると言う珍しい事態になったようです。

緑川の歴史 暗渠へ

昭和27年に立川市議会で都知事宛に意見書が採択されています。

『(略)・・・首都としてまた衛生都市としての形体を整へる上からもこの緑川の一部(曙町1丁目2の2番地より曙町3丁目121番地に至る間)1.4粁(キロメートル)の区間を完全なる下水道として一日も早く国家に於て施工せられるよう地方自治法第99条第2項の規定により意見書を提出する』

これは現在の昭和記念公園の曙口から中央線付近です。

その後暗渠化の工事が行われ、この下流部分でも暗渠化し、今の形となりました。

緑川にあった橋

いまでも、「曙橋」、「東橋」、「みのわ橋」については橋の名前が交差点の名前でも残っています。また、「尺串橋」、「羽衣小橋」、「新田橋」、「暁橋」、「曙三丁目橋」は橋の高欄が残っています。

現在の曙橋。立川駅北口から北側へ放射するように伸びる都道16号線と都道153号線が交わる交差点で人通りが非常に多い。歩車分離式の交差点になっています。

曙橋の東側。写真の案内看板の奥のあたりが東和橋があった場所のようです。

東橋。細かい道を合わせると7差路になっていて交通量が非常に多いです。ここに橋がかかっていました。ましてや、川があったことは今では想像が難しいものです。

『今昔写真集 たちかわ』という本の中には、橋があった当時昭和34年の写真と、昭和50年ごろの写真が載っています。当時はこの辺りは砂利の道路だったようです。昭和50年の写真も今となってはだいぶ古い写真ですが、奥に見えるNTTが電電公社だったことからか、信号の交差点名が「電報電話局前」となっていました。

曙三丁目橋の高欄。片側だけ残されています。この付近は巨大な中央分離帯を持つ上下一方通行道路となっています。巨大な中央分離帯には今は駐車場がありますが、当時はここに緑川がありました。

暁橋

中央線南側の羽衣小橋。銘板には「はごろもこばし」とありまた。中央線が高架化されましたが、南側の道路には用地確保などの影響はなかったようです。橋の大きさは普通乗用車が1台通れるほどで、橋の上での離合は難しそうです。

南武線南側の尺串橋。当時書いたブログ記事では「しやくぐしばし」と紹介しましたが、「や」は小文字で「尺串」でした。尺串はどういう意味なのだろうか。黄色と黒の縞々は車の衝突防止を促すものなのでしょう。

みのわ橋。信号機がある交差点にあった緑川にかかる橋です。立川崖線のハケ下を流れる矢川と交差する橋の名前ではありません。

みのわは付近のでは自治会の名前で存在しているが、地名としては消失しています。以前は「箕輪」と書いていたようです。『立川の地名 -立川編-』によると、交差点の東側、今の浄土真宗本願寺派西光寺の付近に「箕輪城」があったことが由来と言われていますが、実際城があったこともよくわからない。ということでした。

最後に

暗渠で流れる緑川。今は存在すら知らない人も多いと思いますが、調べてみると、立川の洪水を守っている大切な川であり、この川を造るのにたくさんの苦労があったことが分かりました。川は既になくても、橋が残っているのはおもしろいことであり、当時の様子を考える上でも楽しいですね。

 

参考文献など
(50音順)
・あの日、あの頃、あの辺り
 中野藤吾 平成4年7月9日
・基準点成果等閲覧サービス
 http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/
・くにたちしらべ No.18
 くにたち中央図書館 2013年12月9日
 https://www.library-kunitachi.jp/PDF&IMG/kunitachi_sirabe/kuni_chimei8.pdf 
・今昔写真集たちかわ
 立川市教育委員会 昭和50年3月25日
・残堀川の成り立ちと大滝の成立 General History of Zanbori River and Establishment of Otaki Head Drops
 都土木技術支援・人材育成センター年報 平成24年
 http://doboku.metro.tokyo.jp/start/03-jyouhou/nenpo/24nenpo/2415.pdf
・写真集 たちかわ
 『写真集 たちかわ』編集委員会 平成2年12月1日
・創立五十周年記念誌 あけぼの
 立川市第二小学校 創立五十周年記念事業実行委員会 昭和55年2月2日
・立川市議会史 資料集1
 東京都立川市議会史編さん委員会 平成3年3月31日
・立川市史
・立川市史資料集 第三集
 立川市教育委員会 昭和35年3月
・立川の昭和史第一集 建物疎開の記録
 立川市教育委員会 平成8年3月29日
・立川の地名 -立川編-
 保坂芳春 立川市教育委員会 昭和63年3月
・地図・空中写真閲覧サービス 
 http://mapps.gsi.go.jp/
・独立行政法人国立病院機構 国立医療センター 病院概要/沿革
 http://www.nho-dmc.jp/information/outline.html
・日本自動車学校 10年のあゆみ
 10年のあゆみ編集委員会 日本自動車学校豊和会編集部 昭和39年12月20日
・羽衣町一丁目自治会 創立三十周年記念誌
 羽衣町一丁目自治会 昭和52年

地図
利用フリーのOpenStreetMap

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