国道246号新二子橋の車道部未供用ランプ

国道246号多摩川を越える新二子橋の世田谷区側に、車道部が未使用のランプがあります。

ランプは沼津方面への入口と、沼津方面からの出口のハーフインター状に設けられていて、新二子橋からGLまでスロープになっています。

写真のとおり、スロープの半分程度がフェンスで囲われていて、出入口部分には車止めが設けられています。また、フェンスには東京国道事務所と世田谷区の連名で、

この歩道(ランプ)は、歩行者及び自転車が通行する道路です。
なお、災害時には緊急車両等が通行する場合があります。

国土交通省 東京国道事務所
世田谷区

と書かれた看板が取り付けられています。
ただ、フェンスは地面にしっかりと取り付けられていますし、パトカーや救急車などの四輪の緊急車両が通行するためには、フェンスを撤去する必要がありそうです。

新二子橋上もランプそのものの構造で、合流・分岐部分は長くとられていますが、置きガードレールで塞がれていて、車両は通行することができません。

地図で改めてランプの位置を確認すると、このようになっています。

この部分の国道246号は、世田谷区の瀬田交差点の南側から多摩川を渡って川崎市内に入るまで、車道部は立体交差が続いています。世田谷区内の地上部の立体部を玉川高架橋、多摩川をまたぐ部分を新二子橋といい、ランプはちょうどその境界付近にあります。

玉川高架橋新二子橋の供用開始は1978年6月30日のこと1。橋梁の供用開始時からこのランプの車道部は使われていないようです(後述)。

明らかに車両が出入りできるように設計したであろうこのランプが、なぜ車道部が未使用のままとなっているのか、調べてみました。が、肝心なところがモヤモヤしたままです。

ランプを降りた先にあるもの

ランプを降りた先にある自転車等駐車場

一般論として、通常、幹線道路の出入口やランプは、その交通量等に耐えうる幹線道路に接続されます。住宅街や山中に出入口が設けられても危険極まりないわけです。

一方、この二子玉川のランプを降りた先にあるのは自転車等駐車場(駐輪場)、そしてその先には玉川高島屋S・Cの駐車場です。左右に接続する道路は幅員6m程度の狭い生活道路で、とても国道246号(現道)等に接続できる幅の道路ではありません。そして、本線は駐車場等を高架で飛び越えていきます。

玉川高島屋S・Cを越える国道本線

この本線が玉川高島屋S・Cを越えていく構造、いまでこそそれほど珍しくはなくなりましたが、区分地上権により権原を取得した日本で最初の事例2となっています。

通常、道路等を整備するときには、必要となる土地を買収又は収用して所有権を取得することが原則とされてきました。民法第207条には、「土地の所有権は、法令の制限内において、その土地の上下に及ぶ。」と規定され、その土地の地下・空中にもその権利が及びます。

一方、区分地上権は地下又は空間に上下の範囲を設定し権原を取得するものです。

『道十年』(川崎国道工事事務所)P62から引用

玉川高島屋S・C駐車場上空の部分については、橋桁付近に区分地上権が設定されています。

付近の公図(地図に準ずる図面)から抜粋
地図に準ずる図面のため、土地の形状は実際と異なる部分が場合がある。
玉川三丁目1600-5登記簿を抜粋

実際に、この土地の一部の登記簿を取得してみると、所有権は玉川高島屋S・Cを運営する東神開発株式会社である一方、権利部(乙区)には「東京湾平均海面の上26.65m~48.00mの間」の範囲で地上権設定がされているのがわかります。

P8橋脚のある1570-6の登記簿から抜粋

一方、間に1本立つ橋脚がある玉川三丁目1570-6の登記簿を見てみると、こちらは売買により当時の建設省が所有権を取得しています。また、橋脚の形に沿って円形に分筆されている模様です。

駐車場から見る玉川高架橋と、奥にあるP8橋脚

この区分地上権による道路用地の権原の取得は、現在では立体道路制度なども相まって、特に都市部などではさほど珍しいことではなくなってきましたが、当時としては最初の事例のようで、川崎国道工事事務所(現在の川崎国道事務所)が設立10周年の際に刊行した『道十年』には、このような記載があります。

 本件は、たまたま昭和43年6月、建築主東神開発株式会社が、ショッピングセンタービル及び駐車場(地下2階、地上6階)の建築確認申請を東京都に提出した段階で、当局の道路計画と競合することが明らかになった。
 当局としては、本区間の高架橋設置に伴い必要となる用地は、道路管理上の問題等から原則として所有権を取得する方針であった。しかし建築主である東神開発株式会社の計画では、ショッピングセンターと駐車場ビルを道路を挟んで接続させ両社の一体利用を図ろうとしているので買収には絶対応じられないという意思表示があった。
 そこで当局としては種々検討した結果
① 既存の建物の上空を高架橋で横断するため、道路構造上からも必ずしも土地所有権を取得する必要がないこと。
② 土地所有権及び地上権を取得する場合に比較し区分所有権は、より経済的であること。
③ 既存の建物と全く独立することになるので、道路法上の問題点が少ないこと。
④ 土地所有者に、買収又は地上権の設定には応じられないが、区分地上権の設定には応じる意思があったこと。
 等により、民法第269条の2の規定に基づき高架橋の設置及び道路構造物を中心とした管理に必要な範囲について区分地上権の設定によりその権原を取得することになった。

これはあくまで建設省側が書いた文章なのでこのようなアッサリとした記述になっていますが、当時日本で初めて(諸説あり)の本格的な郊外型ショッピングセンターを画策し土地を買い進めていた横浜高島屋との間で、やり取りがあったようでした。

玉川高島屋S・Cの誕生

玉川高島屋S・Cは1969年11月1日にオープンした日本初の本格的郊外型ショッピングセンターと言われ、モータリゼーションを見越して大規模な駐車場を設置した当時としては珍しい形態でした。ただ、この「日本初の本格的郊外型ショッピングセンター3」というのは諸説あります。

玉川高島屋S・Cの出店経緯などは、『ザ・ショッピングセンター 玉川高島屋SCの20年』(1984年7月26日 東京経済新報社)に詳しく載っていて、国立国会図書館デジタルコレクションのアカウントを持っていればネットでも読めるので、興味がある方は読んでみてほしいのですが、一部内容を引用します。

昭和三十八年の三~四月ごろだったと思うが、私は清水(滋)調査課長(現東海大教授)の運転する車に便乗して日本橋から約一時間、二子玉川の坂を下りていた。二子玉川園駅には砧線、玉川線、大井町線と線路が集中しているし、バスが一三もあった。遊園地がある関係で、東急や小田急がいろいろな方面にバスを走らせていた。しかも駅前にはおあつらえ向きの田んぼが二ヘクタールほど残っていた。
「ここだ、ここだ。これ以上の場所はない。ここに決めよう」
 二人の意見は完全に一致した。ふと、ストックホルムのSCを思い出した。日本はまだ欧米の水準に到達していないとしても、いつの日か大型のSCができる時代がくるとの確信を持っていただけに、絶好の立地を発見して大喜びだった。

(前略)玉川高島屋SCのデベロッパーとして、「東神開発株式会社」が三九年一一月二五日、資本金一億円、五社(横浜高島屋、高島屋、三和銀行グループ、日本生命グループ、野村不動産)の均等出資で誕生したのである。
 もっとも、買収した用地を登記する必要から、以上五社の関係者が一人も顔を出していないダミー会社を、三八年に作ったので、当社の創立は三八年一二月二八日となっている。

 土地の買収は三八年秋ごろから、まったくのペーパー・カンパニーの名前を使って、少しずつ買い増していった。横浜高島屋が買ったとわかると、たちまち地価が急騰するので、俗にいう「地上げ屋」といって、どこの馬の骨かわからない不動産会社をこしらえて買うというのが、この業界での常套手段であった。

と、あるように、1963年秋ごろから、この地で用地買収を開始。このとき「ペーパーカンパニー」とある東神開発株式会社は、現在は高島屋に関連する施設開発や運営を行う会社として存続しています。

1963年の航空写真を見ると、確かに玉川高島屋S・Cがある部分が大きく農地として残っていたのがわかります。

地図・空中写真閲覧サービス(1963年6月撮影)MLT636-C13-8から抜粋

玉川高島屋S・Cのある1筆の登記簿には、条件付所有権移転仮登記の際に農地法第5条許可(農地の転用には知事の許可が必要)を条件に付している筆があり、売買前の地目も「田」となっており、確かにこのまとまった農地を買収したようでした。

1967年6月19日日本経済新聞1面

このように秘密裏に土地を買収していた玉川高島屋ですが、1967年6月19日の日本経済新聞朝刊の一面にスクープされ明るみになります。

そして、1968年6月に建築確認申請を実施、同年8月7日には地鎮祭を行い、建設工事に入っていったようです。

国道246号東京・横浜バイパスの建設

国道246号のうち、瀬田交差点付近~峠茶屋前交差点付近間の現在のルートは、事業名称「東京・横浜バイパス」としてバイパスの建設・現道の拡幅がされました。これの事業化がいつなのか、明確な年度がわからなかったものの、月刊誌『道路 road engineering & management review』1972年6月号には

 昭和42~43年の2カ年にわたり計画線調査および二子橋を中心とする重要構造物調査を行なつた(ママ)。この結果バイパスと現道拡幅の2案が計画されたが、最終的に局部的なバイパス案を採用することとした。

と記載があります。この2カ年の年度は、先述の日本経済新聞のスクープと建築確認申請の時期と重なっており、先の「たまたま昭和43年6月、建築主東神開発株式会社が、ショッピングセンタービル及び駐車場(地下2階、地上6階)の建築確認申請を東京都に提出した段階で、当局の道路計画と競合することが明らかになった。」という記述とも整合が取れます。

そして、東神開発株式会社とのいろいろな協議を経て、1969年5月20日に都市計画道路放射第3号線支線3として都市計画決定がされることになります。

この際、玉川高島屋S・Cの駐車場の一部も、同日の1969年5月20日に都市計画自動車駐車場二子玉川駐車場として都市計画決定された点でした。

道路と駐車場の都市計画決定

東京・横浜バイパスの建設と、玉川高島屋S・Cと立体交差になった経緯については、前出の『ザ・ショッピングセンター』に記載がありました。

 駐車場の規模は、アメリカの例で言うと、建物面積の約三倍が常識であった。ただ、大量交通機関が利用できる場合とか、車の普及率がまだ低い場合は二倍くらいでよい、と向こうの本などに書いてあった。我々の場合、事前に商圏内の一〇〇〇軒を対象に調査したところ、三二%が「自動車で買い物に行く」との答えであり、それから判断して、建物面積とほぼ同じくらいの駐車場があれば間に合うとの結論となった。
 そこで、地下二階、地上六階、屋上を含めて旧フロアで四万二〇〇〇平方メートル、一三〇〇台収容の駐車場を計画したところ、バイパスが建物の途中のところを通ることになって、ちょん切られた形状になった。このため、最終的には地下二階、地上三階、二万八五〇〇平方メートル、屋上を含めて三万三〇〇〇平方メートル弱しかできなかった。
 そこで不足分として新たに国道二四六号線の東側に国道二四六号線の東側に土地約一三〇〇平方メートルを取得して駐車場に当てることにした。それは同時に東京方面からくるお客様のためにも、ぜひ必要なものだった。というのは、東京方面からくると、右折して駐車場に入るのは大変なので、左折して左回転上昇し、二七〇度ぐるっと回り、国道の上にまたいだ橋を渡って駐車場の三階へ入るほうが便利である。これは東一社長のあとを継いだ飯田新一社長のアイディアであり、至上命令であった。

前述のように、一三〇〇台収容の駐車場の建築許可をとっていたのだが、国道のバイパスが通り、橋を架けるので土地を売ってほしいと言ってきた。われわれは少しあわてたが、すでに確認申請もとってあり、郊外型SCでは駐車場が生命線なので、簡単に受けるわけにはいかない。
「どうです。私どもはほかに適地を求めて移るから、六〇〇〇坪まるごとかってくれませんか」
「無理いっては困ります。そんな予算がとれるか、考えてみてくださいよ」
すったもんだのあげく、駐車場ビルは三階半のところでちょん切って、その上をバイパスが通る。それで四〇〇台分の駐車場が消えてしまうので、その代替地として、バイパスの下に四〇〇台分の駐車場を作る。八王子にあった相武国道事務所の小林課長が、そういう図面をもってきた。みると、一本柱で支えられる柱が駐車場を便利にするために中央に車道が取れるように二本柱構造になっている。四〇〇台を収容できる立体駐車場で、しかも本駐車場と連結されている。
「これでひとつバイパスを通してもらえないでしょうか」
非常にまじめなお役人の誠意に打たれて、
「それで結構です。六階建てならそれだけ建築費もかかるのだから、私どもでバイパスの下に駐車場を作りますよ。駐車場の上空はご自由に通られて結構です」
「ただ、国道下は国有地化または公共施設でなければならないとの決まりがあるので、公共駐車場にしなければなりません。となると、二四時間体制になりますが」
「それも結構です」
とオーケーした。ただ公共駐車場にするためには、そこに至る道は都市計画道路にする必要があった。というわけで、七不思議のひとつである国道越えの橋ができたわけだが、なんと法改正で、建設大臣が認可を与えうる最後の日――四四年三月三一日というぎりぎりの日にこの都市計画決定が、建設大臣の名で行われたのである。

都市計画駐車場は都市計画で定められた駐車場のことで、その辺の巷にあふれたコインパーキングはほとんど都市計画で定められているわけではありません。都内では57箇所が都市計画決定されていて、二子玉川駐車場は2023年3月31日時点で570台の決定台数に対して1118台が供用4されています。

正直、現在の都市計画行政では、区分地上権を設定した道路の下の駐車場が都市計画決定された公共駐車場にする必要はない気がします。

また、最後の「四四年三月三一日というぎりぎりの日にこの都市計画決定が、建設大臣の名で行われた」というのは、誤りな記述で、実際には昭和44年(1969年)5月20日に都市計画決定されています。この年の1969年6月14日には旧都市計画法を廃止し、現在の都市計画法が施行されています。旧都市計画法では、都市計画施設の決定権が国(建設大臣)にあり、現都市計画法では都道府県長及び市区町村長となりました。決定にあたっての手続きも変わっていて、国道に関する都市計画を国の意向で国の権限で決定したかったのでしょうか。

ランプはどこを目指したのか

ようやく本題に入るが、この新二子橋のランプはどこに接続するつもりだったのでしょうか。

これも一切の裏付けとなる資料がないものの、玉川高島屋S・Cの計画がなければ、おそらく高架橋に沿って瀬田交差点方面へ側道が建設されていたのでしょう。たぶん。

先ほどの都市計画図を見ると、黒色の矢印で示した「放射第4号線支線3」のうち、本館と南館の間を通るルートについても、1969年5月20日に同時に都市計画決定されています。この部分の幅員は10~11mで、世田谷区の都市計画図では「未完成」という扱いになっています。

本館と南館の間の道

現在この部分には幅員7.8m程度の区道が通っており、都市計画道路としては、いわゆる「概成」という状態です。

同時に都市計画決定されているので、おそらくこの道路を幅員10m~11mに拡幅したうえで、ランプへの出入り道路としたかったのだろうと思いますが、現状は玉川高島屋S・C利用車両がひっきりなしに通っていて、とてもランプ出入り車両を負担できるような道路には思えません。

月刊誌『道路 road engineering & management review』1972年6月号

また、月刊誌『道路』には、この区道に接続するものとして計画されたことを示す図が掲載されていることから、都市計画決定された時点ではこの道路がアクセス道路となる予定だったことには間違いはないのだろうと思います。

駐車場へのアクセス道路にするつもりだったのでは?とも思いましたが、それを裏付ける資料は一切見つけられませんでした。

そして、なぜ車道部が未供用なのか・・・
先の川崎国道工事事務所『道十年』にはこのような記述があります。

 53年度は玉川・二子地区の交通安全施設及び環境対策施設等を6月に完成され、さらに12月には溝ノ口高架橋の完成により各々供用開始した。しかし玉川三丁目のランプ部は地元との話し合いがつかず未供用の状態である。

おそらくこれが理由です。
ただ、新聞各社のアーカイブで検索しても反対運動をしたとかそういうような記事は見つかりませんでした。一方、玉川高架橋の建設に当たって住民折衝や環境対策を逐一行ったような記述が見られることから、その話し合いの一環で供用しないこととしたというのは想像に難くありません。

供用前の反対運動の有無など、具体的な情報をお持ちの方のコメントをお待ちしております。

現在、このランプの供用を待ち望む人は少ないのではないかと思われ、今後も供用されることはないのかなと思います。

脚注

  1. 『道路建設 No.368』1978年9月 ↩︎
  2. 『道十年』川崎国道工事事務所 ↩︎
  3. 日本ショッピングセンター協会HP ↩︎
  4. 令和5年都市計画現況調査 ↩︎

コメント

  1. 匿名 より:

    緊急車両も通りそうにないですし作る必要なかったですね

  2. 匿名 より:

    沼津ではなく高津では?

  3. 石綿晃 より:

    興味深い情報ありがとうございます。

  4. 二子生まれの60代 より:

    建設前に地元住民が座り込みをして、建設反対していました。地元住民には何のメリットもなく、渋滞(通学路でもあたので子供の事故も含めて)に巻き込まれる可能性だけが懸念されていました。今でも駅近辺では渋滞が多く発生しています。街の発展には仕方のないことかもしれませんが、生活環境が変わってしまうことはあまり好んではいないと思います。
    当時の航空写真と ”新聞各社のアーカイブで検索しても反対運動をしたとかそういうような記事は見つかりませんでした。一方、玉川高架橋の建設に当たって住民折衝や環境対策を逐一行ったような記述が見られることから” に興味を持ちました。 特に写真は懐かしかったです。

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      貴重な情報ありがとうございます。座り込みもしていたんですね。
      反対運動はランプの供用に対する反対でしょうか、バイパスそのものに対する反対だったのでしょうか。バイパスそのものに関してならこれまで地上を走っていた車両がスルーしていくので、むしろ地元に対しては好都合な気がします。

      仮に今このランプを供用させようとしても当然のように反対が起きそうですし、そもそもの計画意図が少し不可解なところです。これが都道大田調布線に降りる形なら多少違っていたのでしょうかね。

  5. yuu より:

    記事とはズレますが、等々力大橋完成後に二子橋の架け替え工事とか予定はあるのでしょうか?片側一車線、歩道も片側にしか無く、明らかに交通量をさばけていない印象です。橋脚も20本近くあり川の流れに悪影響がありそうな古い橋。

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      現在のところ架け替えの話は聞いたことはありませんが、
      1926年日野橋→架け替え中
      1934年丸子橋→2000年架け替え(車線増)
      1935年多摩川原橋→2006年架け替え(車線増)
      1937年関戸橋→架け替え中
      1939年大師橋→2006年架け替え(車線増)
      1953年多摩川水道橋→2001年架け替え(車線増)
      1957年是政橋→2011年架け替え(車線増)
      とやってきているので、1925年架橋の二子橋の架け替えもそのうち話に上がると思います。

      これまでは、老朽化もありますが、車線増を目的とした架け替えも多く優先的に行われてきた感はあり、二子橋はすぐそばに新二子橋があるので後回しにしていたように思えます。
      二子橋の健全性はⅡで、老朽化の観点では早期に架け替えを含めた措置をとるべきともなってはいないはずです。

  6. 二子生まれの60代 より:

    バイパス自体は仰る通り地元では反対していなかったと思います。バイパスの無いころには二子橋の渋滞がひどかったので、それが解消されると考えていたと思います。結果的には高島屋渋滞や現在のライズ渋滞で今でも渋滞はしていますが。
    噂ですが、バイパス(新二子橋)から直接高島屋の駐車場に乗り入れられると聞いていました。そのころは反対するという話は聞いたことはありませんでした。その後、国道を一企業の駐車場に乗り入れる建設物(ランプ)は認められなくなって、今の形に変わったと聞きました。ここから反対運動が始まったと認識しています。

  7. あるくむ より:

    非常に興味深い夏休みの自由研究ありがとうございます。時期は五島慶太が亡くなってしばらくした頃ですね。第三京浜の出自のミステリーにも似た面白い話で、食い入るように読んでしまいました。いつも謎だったあのランプ。二子玉が何かと面倒な富裕層の城になる前の時代に何があったのか。都市の謎に迫る素敵なお話でした。

  8. 元用賀在住 より:

    たまに拝見させて頂いております
    今も事業区間になっていませんが、そのランプは首都高外殻環状線との接続のために用意されたものだったと記憶しています。今現在の計画で上書きされてしまって当時の資料を見つけることができませんでしたが、東名からの延長線上で高島屋の辺りを通る事が当時の計画概要だったと思います。高島屋と駐車場ができてどうするのだろうと思っていました…。

    • yunomi-chawan yunomi-chawan より:

      東京外郭環状道路のうち東名以北は1966年に都市計画決定されていて、計画もそれより数年前から実務段階で行われていたことから、その近辺あるいは以降に建設された東名高速道路や中央自動車道においては準備工がされています。
      東名以南においても、湾岸線までの計画が構想され、新聞報道によると関東地方建設局(当時)から川崎市に対して計画が示され、市議会で概要を報告した旨の記事が出されています。これによると、国道246号には接続しない計画となっていて、結局この計画は都市計画決定はされず、現在もこの区間は計画なしの状態が続いています。
      国道246号バイパスの建設はこれよりずっと後のことですから、このとき示された計画通りではなく、国で何らかの構想を持っていた可能性は否定はできませんし、外環道を整備する場合東名高速道路からの延長線上である二子玉川を通ることはほぼ確実ですが、個人的にはかなり疑い深い説ではないかと思い、結論づけるにはさらなる調査が必要かなと感じました。

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